プロローグ

  

 1890年。秋。煉瓦造りの屋根を蔦の葉が紅く彩り始めたその頃。

 男の手もまさに紅く染まっていた。

 血に濡れた両手で顔を覆う。自分はなんて恐ろしいことをしてしまったのだろう。

 体を小刻みに震わせながら、このまま失神してしまいたい衝動にかられた。

 だが、こんな状況に似つかわしくない楽しい情景を頭は回想させた。現実逃避だとわかっていたが、男はそれに身を委ねた。

 男の名はエドワード・クリストファー。実業家の父を持ち、中流階級だったがなんの不自由もない生活を送っていた。母は穏やかで優しく、彼女の高く澄んだ声はひそかにエドワードの自慢だった。

 弟たちもスクールに通いエリートコースを走っているが、長男の彼は父親の跡を継ぐためにとりわけ必死になって大学で経営学を学んでいた。学年ではトップクラスの成績を誇り、教授からも一目を置かれる存在になっていた。

 季節の変わり目に行われる舞踏会。毎晩のように華やかな世界で出会う、美しく着飾った婦人たち。そのうちの何人かと恋に落ち、いっぱしの紳士として彼はふるまっていた。

 公私ともに充実した日々だった。花もあれば音楽もあり、自分の好みに合わせた服を何着も無駄に作らせていた。

 そう、あの日までは。

 朝、エドワードは召使の声で目を覚ました。嫌な胸騒ぎを覚えた彼はベッドから飛び降りて駆け付けた。部屋の前で腰を抜かしている召使を見つけ、開けっ広げになっているドアの中を見た。

 エドワードは声も出なかった。

 尊敬をしてやまなかった父親が・・天井からぶら下がっていたのだ。

 事業の失敗による自殺は、心臓麻痺による死と塗り替えられて伝わっていった。

 もちろん医者を買収したのである。自殺をしたなどと知られてしまえば、社交界から追放されるのは目に見えていた。

 亡き父の跡を継ぎ、実力をつけさえすれば今の生活を守ることができると、エドワードはそう強く自分に言い聞かせた。そうでなければ家族を路頭に迷わせてしまう。クリストファー家の命運はまさにエドワードの肩に重くのしかかった。

 穏やかだった母はやがて取り乱すようになり、日に日に痩せていった。エドワードはそんな彼女を守ろうと懸命に励まし、元の美しい母に戻ることを願った。

 だがその夢も希望も、無に帰した。

 今目の前で息絶えた女性は紛れもなく、彼の母親だったからである。

 夜啼鳥が遠くで啼いた。哀愁のあるヴィヴラートが心を激しく揺さぶった。

 エドワードは声を押し殺して慟哭した。

 紅い屋敷の外では、漆黒の闇が辺りに帳を下ろしていた。

 

                   

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