みなさん、こんにちは。
山澤さんの体験談、後編です。
 
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山澤さんのお話:後編
 
 
▲山澤賞子さん。家があった場所の周りを案内してくれました。
 
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山田幼稚園で、友だちが先生をしています。ちょうど子どもたちをバスから下ろすときに地震があって、もうそのまま、子どもたちを下ろさずに、高台まで津波とおっかけっこをしながら登っていって、助かったんだそうです。
 
漁師さんは何人も流されました。津波が来る前に船を出そうとして、間に合わず、流されたんです。
 
別のうちの人もそうです。「行くな!津波がくっぞ!」と引き留める声も間に合わず、残っていた3階建ての家の近くで見つかりました。遺体のポケットにその人の車の鍵があったので、すぐわかりました。それでも本人確認に、何週間もかかったそうです。
 
また別のうちの人は、ナイロンバッグに、保険証、携帯、財布、それに仏さんを入れて走りました。でも津波に足を取られて、車の下に引きずり込まれていたところを、消防団の人にみつけてもらって、ひっぱりだしてもらったそうです。だけど津波の水を沢山飲んでしまったので、病気になって二週間入院しました。「津波肺炎」っていうんですって。
 
そういえば、わたしの家より、だいぶ下に保育園が見えるですけど、今までは保育園の下までしか、津波は来ないと思っていました。
 
今はそうですね、夜が怖いです。街灯はあってもね、人が居ないから。
泥棒もたくさんあったそうです。1階が流されて、1階が大丈夫だった家がありますよね。そうすると、2階に入り込んで、お米やトイレットペーパーを盗んでいくんですって。
 
また別の、3階建てのおうちはね、そーっと流されたから、2階が大丈夫だったんですけど、着替えやティッシュとかを取りに行って、土足で入るしかないから、段ボールを敷いていたそうなんです。それでまた何日かあとに行ったら、知らない足跡があったって。
 
電気や水道が止まって、今度はプロパンガスが、ボンベごと盗まれたりしていました。
流されてきた車から、油を抜いたり、金目のものを持っていったり、色々ありました。
 
知り合いのおじさんは、釜石から、夜に歩いていたそうです。ちょうど船越小学校のあたりに、家やがれきが山になっていて、何人ものご遺体と、会って来たそうです。
 
少し経ってから、私たちが避難したのは、山田高校の体育館の、格技場でした。家のある人はだんだんに帰っていき、私たちは小さい方の体育館に移り、そこで夏まで過ごしました。そこには「霞露」の方々がいらっしゃいました。(山田町で最大の犠牲者が出た老人ホームです)その方々も、徐々にもうひとつの老人ホームに移られたのですが、それまでが、ちょっと大変でした。
 
高齢の方はね、簡易トイレに行かれないんです。そこで、高校生が着替えをするスペースに、ポータブルのおまるを置きました。それを使っていたんですが、でもね、そのままなんです、誰も捨てないんです。結構ね、自分の親が使っていても、なかなか掃除、できないものみたいですね。
 
おむつ交換もみんなが一緒のところでしました。毛布で隠しながら交換して。私は自分の親の介護をしていたので、慣れっこなんです。だからもっと手伝いをしたかったのだけど、ヘルパーの資格を持っていないから、できませんでした。こんなときくらい、融通をきかせてくれてもいいのにって、思いました。
 
だからおまるの掃除をすることにしたんです。朝6時半に起きて、おまるを外に持っていって、雪で洗いました。とっても冷たかった。空気を入れ替えたら、掃除機をかけます。食事のときに臭ったら、みんなも嫌ですもんね。
 
そして、7:30になると、おにぎりを食べます。
私たちが居た避難所は、そういうところでした。
 
 
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山澤さんのインタビューはここまです。
 
 
 
明日で、震災から2年経ちます。
 
 
 
 
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