木口さんが「悪魔のしるし」を通してやっていたとは、身の回りのことを知覚し、記述することだったように思う。木口さんはよくスケッチをしていたが、「悪魔のしるし」という場も、木口さんにとってはスケッチブッックのようなものだったのかもしれない。その視点は、「演劇とはこうあるべき」「戯曲とはこう書かれるべき」と言った社会的通念のようなものとは少しズレていて、木口さんの個人的な興味あるいは欲望に端を発していた。でも、それが個人の中に閉ざされているのではなく、極めて開かれた状態にあったように思う。その欲望はとても根源的なもので、木口さんが作家であり、演出家であること、あるいは「生き(続け)ること」以前というか、そもそも一人の人間であることに依拠していたように思う。そして、彼の肩書きや演目、そして「生命」すら、そのアウトプットのためのメディアのようなものであったように思うのだ。 

 


だから病に侵され、命の終わりが目の前をちらつくような状況に置かれてもなお、木口さんは自身の置かれた状況から知覚し続け、記述し続けることをやめることはなかった。「疒日記」に記されたテキストは、木口さんが知覚し続けていたあれこれを垣間見せてくれる。 
どういう立場だから云々、ということではなく、人間としてそこに在る、というその根拠が、彼の活動を開かれたものに、そしてとても誠実なものにしていたのだろう。 
木口さんは、何かしらの「立場」を表明した瞬間にこぼれ落ちてしまう事物にとても敏感で、人間という存在を信頼し、そして知覚したことを作品として紡ぐことに真摯だった。この稀有な作家とその作品が、少しでも多くの人に触れることを願って、僕はこのプロジェクトを支援します。

 

 

伊藤暁(伊藤暁建築設計事務所・建築家)

 

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