前回からの続きです。

 

そして、震災のその年、息子が6年生の夏。

念願の、南相馬と杉並と取手の少年野球チームの、

練習試合がありました。

南相馬に子供達を連れて行くわけにはいかないので、

取手で開催された合宿試合。

子供達は、どこからきたとか、震災があってどうしたこうしたとかではなく、

ただただ、野球を楽しんでいました。

 

 

 

引っ込み思案な南相馬チームの子たちに、

うちの息子はどんどん仲良くなっていきます。

ついには、南相馬チームの子たちと一緒に遊び始め、

どっちがどっちのチームかも分からなくなるくらいでした。

 

2日間の合宿試合を終え、最後。

南相馬に帰るバスを、たった一人、

息子はずっとずっと、追いかけました。

 

「またな〜〜〜また会おうな〜〜〜!!!!」

大きな声をあげて、大きな手を振りながら、

南相馬に帰るバスを、見えなくなるまで、走って追いかける息子の姿。

バスから身を乗り出して

「また会おうな〜〜〜。南相馬にこいよ=ーーーー!!」

と叫ぶ、南相馬チームの子たち。

 

野球が繋ぐものは、親の私たちにはかなわないほどの、

素晴らしいものでした。

 

同じ時間を過ごし、同じ目標を共有する。

そこには、どんな違った状況も飛び越えて行く力があると、

この時、感じました。

 

 

そして2011年の11月。

私は、南相馬の少年野球事務局をされていたパン屋さんの

歌を1曲作り、その歌を引っさげて

南相馬に初めて行きました。

 

その頃の音楽仲間達と一緒に、

車一台にライブ用の機材と、楽器を詰め込んで、

杉並の少年野球の事務局の方に案内していただき

震災から半年の南相馬に行きました。

 

 

まだ津波の後が残り、

広大な海辺の津波跡を見て、呆然としました。

町にはたくさんの瓦礫が置いてあり、

「これは、もうどこにも出せないんだ。汚染されてるからね」

と、あっけらかんと言われる町の方々の言葉に、

心が壊れそうになりました。

 

どの景色を見ても、信じられない光景ばかりで、

悔しさと、切なさと、歯がゆさと、憤りが

自分の中に渦巻きました。

けれど、どの景色を見ても、泣けなかった。

悲しい、とかそんな簡単な気持ちではなくて

「なんなんだ、これは」という理解不能な

いや、人間は最大の痛みを知る時、その痛みを逃がすために、

感情を殺すのかもしれない、というような気持ちになっていました。

 

けれど、一箇所、そこに行った時、涙が溢れたのです。

 

それは、北新田の野球場でした。

少年野球の子供達がいつも練習や試合をしていた野球場に、

うず高く、うず高く積み上げられた瓦礫の山。

それは、高いもので、3メートルくらいになっているものもありました。

 

その瓦礫だらけの野球場に、連れていかれた時こういわれました。

 

 

「もう、ここで野球をすることはないだろうね。

ここの土はこうやって

汚染された瓦礫で全部ダメになってるから。

土を全部剥がして、入れ替えなくちゃ、野球はできないよ」

 

 

そう、少年野球のコーチが言われました。

 

 

その時、私の心の決壊は崩れました。

溢れ出てくる涙が、止まりませんでした。

どこから出てくるのかわからないほどの涙は、

どこから出てくるのかわからない感情を

連れてきました。

 

 

どうして、どうして、もう野球ができない。。。

どうして、どうして、子供達が、好きなことができなくなる。

どうして、どうして、この町だけ、そんな目に合わなくちゃいけない。。。。

 

 

悔しくて、悔しくて、

母として、悔しくて、たまりませんでした。

 

 

野球を楽しみにしている息子と、同じような子がここにもたくさんいて、

私と同じような気持ちになる母親が、ここにたくさんいる。

震災は、地震も、津波も大変でした。

だけど、その上、この目に見えないナニカが、

子供達の夢を奪い、親達の心を痛めるなんてどうしてなんだろう。

と、涙が止まりませんでした。

 

 

どうしたらいい。

 

自分には何にもできない。

 

ただ、ここのお母さんと、仲良くなりたいし、

自分は、歌を歌ったり、作ったりすることで、

この町に関わる以外の役に立ち方を知らない。

 

 

そう思い、野球場を後にして、

南相馬の道の駅で、パン屋さんの歌を歌いました。

この日は、4箇所。

用意してくれた場所で、持参した機材を広げて歌いました。

 

そして、どこのパン売り場に行っても、

小さな子供が、パン屋さんの歌で、踊ってくれてました。

 

東京から持って行った、ペットボトルのマラカスを振って、

リズムに合わせてジャンプしながら、歌ってくれました。

 

いる、子供達がいるんだ。

南相馬には、野球もしたいし、歌も歌いたいし、ダンスもしたい子が

いるんです!!!

 

たくさんの子供達は避難した後でした。

けれど、親のお仕事の都合や、家の都合で、南相馬に残っている子供達は

まだまだいました。

 

その子たちをみんな集めて、歌って、踊って、そんな姿を見たい。

そう思いました。

 

瓦礫が積み上げられた野球場を見た後、

道の駅でペットボトルを振りながら踊る子供を見て、

「私はこの町と、ずっと一緒に歌い続けたい」と思いました。

 

どこからか持ってこられた歌ではなく、

この町で生まれる歌を、一緒に、歌い続けたい、と。

 

 

その瞬間が、トモプロを始めようとした瞬間かもしれません。

 

まだ、歌のレッスンも、ダンスのレッスンも全くしていない時

たった1曲、パン屋さんの歌を歌いながら、

南相馬の道の駅で、そう感じていました。

 

 

 

息子が、私を、南相馬に連れて行ってくれたのです。

 

 

そう。

野球という、全く音楽とは関係のない翼で。

 

そして、私は、南相馬で「みんなのうた」という1曲を作りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

新着情報一覧へ