苦しい思いや辛い体験は、誰にも言わずにできれば自分の中にそっとしまっておきたいと本当は誰もが思っています。それは戦争体験に限りません。ふとした光景とか、匂いとか、何かに触れた感覚とか、そういったもので記憶がフラッシュバックしてしまい、苦しむ人がたくさんいます。それでも語ることを決意する人たちがいます。そのような人たちは何を思って記憶の蓋をあけ、語り出すのでしょうか。

 

今回の記事は、あしかけ5年プロジェクトに関わり、おりづるプロジェクトのメインの担当者としては2回被爆者と地球一周をした古賀早織さんが書いてくれました。被爆者の思いを受け止める若者も、たくさん悩み、葛藤し、そして前に進んでいます。

 

被爆者のみなさんと活動をする中で、語ってもらうことが正しいのかわからなくなることがあります。それでも言葉にすることを選んだ被爆者のみなさんの思いを知り、私たちは受け止め、受け継ぎたいと思っています。それは、被爆体験にとどまらず、「他の人には絶対にさせたくない経験」から大切な友人や家族を守る社会への第一歩なのだとも思います。

 

(畠山澄子)

 

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こんにちは、古賀早織です。私は、大学4年生だった2010年におりづるプロジェクトに関わり始めて以来、これまで20名以上の被爆者やユースのみなさんと一緒に世界各地へ被爆証言を届けてきました。2013年〜2014年には、第6回、第7回おりづるプロジェクトをスタッフとして担当しました。

 

プロジェクトに関わり始めた当初は、「原爆」「きのこ雲」「被爆者」などの言葉は知っていても、それらを具体的にイメージすることさえできませんでした。そんな私にとって、初めて出会った「被爆者」のみなさんは、のんびり屋さんだったり、お話好きだったり。そうそう、ちょっぴり怒りんぼの人もいたかな。とにかく「普通」のおじいさん、おばあさんたちでした。うっかり屋な私の性格も相まって、一緒にいるときは何かしら笑い合っている時間が多かったように思います。 

 

2010年、南米グアテマラで行った証言会後のお疲れさま会の様子。笹森恵子さん(左)はアメリカから、渡辺淳子さん(中央)はブラジルからご参加くださいました。右は筆者。

 

一方で、被爆者のみなさんと一緒にいると、日常のふとした瞬間に原爆の苦しみが見え隠れすることに気がつきます。

 

今から約3年前、第7回おりづるプロジェクト実施中に太平洋上を航海しているときのことです。

 

水平線に沈む夕日があまりに美しかったので、私は一緒に夕食をとっていた服部道子さんをお誘いし、デッキまで空を眺めにいきました。360度海に囲まれながら眺める夕日は格別です。燃えるように赤く大きくなっていく太陽を見ながら私が感激していると、突然隣にいた服部さんが泣き崩れてしまいました。声を押し殺すかのように口に手を当てて大粒の涙をこぼす服部さんの肩は震えていました。驚きながら訳を尋ねると、真っ赤な夕焼け空から原爆当時の記憶がフラッシュバックしたのだそうです。

 

16歳のときに広島で被爆した服部さんは、燃え盛る業火の中、看護師の見習いとして三日三晩寝ないで人々を介抱し、看取り、火葬したそうです。焼けただれた皮膚をひきずりながら歩く人々の群れ、助けを求める人を見殺しにしたという罪悪感、遺体を自ら荼毘に伏したときの匂い…。

 

忘れたくても忘れられない記憶に、これまでどれほど苦しめられてきたのでしょうか。ふだん背筋をピンと伸ばしシャキシャキ行動する服部さんが体を小さくしてむせび泣いている姿を見て、私はあらためて原爆の苦しみは決して過去のものではないということを痛感しました。

 

いつもは年齢を感じさせないほどに背筋をピンと伸ばして話をする服部道子さん。

 

被爆者の中には家族から背中を押されて語り始める人もいます。17歳のときに長崎で被爆した大村和子さんは当時の記憶を一度も家族に話したことが無かったそうです。しかし、当時の自宅の位置や周囲の話から「母はきっと壮絶な経験をしているはず」と思った娘さんたちが、「人生の最後に胸のつかえをとってきて欲しい。」と背中を押して、第6回おりづるプロジェクトに参加しました。

 

和子さんは8月9日は食料調達のため長崎市外へ外出していたため、奇跡的にも直接の被害は免れましたが、爆心地から約500mの地点にあった自宅は壊滅し和子さん以外の家族5人が原爆で亡くなりました。8月12日に頭上を飛ぶ敵機から身を隠しながら自宅へ戻った和子さんは、瓦礫の中から両親弟妹の遺体を探し出し、その場で自ら火葬しました。燃え尽きるまで1人静かに炎を見つめ続け、最後は近くに落ちていた梅干壷に遺骨を入れて持ち帰ったそうです。

 

表情を変えることも無く、ぽつりぽつりと語る和子さんの話を会場の隅で聞いていた私は、証言会の企画者でありながら涙を止めることができませんでした。 

 

大村さんの話を聞いて、長崎出身の20代の青年が絵を描いてくれました。


原爆の記憶を人に話すということは、その記憶を自ら思い起こすという作業でもあります。丁寧に伝えようと思えば思うほど、その記憶はより鮮明になります。

 

プロジェクトを通じて、暗誦できるほどに何度も側で被爆証言を聞いていた私は、まるで自分もその場にいるかのような錯覚を覚え、いつしか「きのこ雲」の写真を見られなくなっていきました。あの雲の下で起きていた凄惨な事実を想像すると、恐怖と悲しみで息が出来なくなってしまっていたのです。

 

おそらく、原爆の記憶を言葉にして伝えることの出来る人というのはそんなに多くないのだと思います。言葉にできない記憶とひっそりと生き続ける人の方が、きっと多いのだと思います。

 

私は以前、広島で出会った被爆者の方に「あの日のことをキレイに話している人を見ると腹がたつのよ!」と強い口調で責められたことがあります。「あのとき見た光景は、とても言葉にできるものではないわ」と私を睨みつけるかのように見つめる瞳にはうっすらと涙が浮かんでいました。

 

出来ることなら忘れたい、辛く苦しい出来事です。それにもかかわらず、毎回証言の同じ場面で苦しそうに顔を歪め、時に涙を流しながらも私たちに語り続けてくれる被爆者のみなさん。どうしてそんなに辛いのに話をしてくれるのかと尋ねると、多くの人が口をそろえて言います。

 

「決して可哀想だと思って欲しくて話しているわけじゃないんだ。同じ思いをする人をつくりたくないだけなんだよ」

 

「苦しいという言葉さえ言えずに亡くなった人もいるから。自分がその人の分まで伝えなくちゃ。」と言う人もいます。

 

2013年、インド洋上で広島原爆の日(8月6日)を迎えた船で被爆者の笹森恵子さんと。


そんな彼らの言葉に背中を押され、動き始めた人たちをたくさん見てきました。

 

例えば、1歳のときに広島で被爆した岡本忠さんは、当時の記憶がない分、自分の言葉で原爆を語れるように広島市の被爆者体験伝承者養成事業で研修を受けたり、広島の平和資料館でボランティアガイドをしながら原爆や戦争に関する知識を学んだりと非常に努力されています。人に分かりやすく伝えるためにと、自分の語りを録音し何度も聞き直しては修正することもあるようです。

 

船の上で被爆者に出会った若い人たちの中には、自分たちと同世代の人にも伝わるようにと、歌や演劇やファッションショーなど、被爆証言をクリエイティブに表現する人もいました。

 

 この継承活動の裏には、被爆者とともに声を届けてきた「ユース」の存在があります。私は3名のユースと活動してきましたが、時に悩み葛藤しながらも、それぞれ言語や音楽、演劇など自分の得意分野を活かしながら被爆者の声を未来へつないでいく「架け橋」としての役割を果たしてくれました。

 

服部道子さんの被爆証言をファッションショーで表現。幅広い年代の方々、約200名に観て頂きました。


一人の言葉、一人の行動が、隣の、あるいは遠くの誰かの心に届き、一歩を踏み出す勇気になる。そうして少しずつうねりが大きくなり、昨年、長年の悲願だった核兵器禁止条約が締結されました。

 

いま、日本政府は核兵器禁止条約に署名することに反対していますが、核兵器がどのような悲劇をもたらすかを想像したとき、私はどんな状況であっても核の使用に賛成することはできません。被害に遭うのは私たちと同じ人間です。その一人ひとりに名前があり、かけがえのない人生があるのです。

 

私は、被爆証言を聞くたびに「私にはいったい何ができるのだろうか」と自分自身に問い続けてきました。具体的な答えはまだ見えず試行錯誤の毎日ですが、被爆者のみなさんと一緒に訪れたポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所でそのヒントをもらえた気がします。それは、「自分の頭で考えることをやめないこと」。そして、「同じ過ちを繰り返さないために、事実から目を背けないこと」。

 

当事者に寄り添いながら共に歩み、時には代弁者として人々の言葉にならない思いを表現したい。そして、あらゆる人が生きやすい社会を築く一助になりたい。そんな思いから、私はおりづるプロジェクトの担当を後任へ引き継ぐタイミングでピースボートを退職し、法律の勉強を始めました。

 

ふと周りを見渡してみると、「言葉にならない思い」を抱えて生きている人は案外身近にいるかもしれません。一人ひとりが少しずつ耳を傾けることができたら社会はもっと優しくなるのかなと思います。

 

思いを伝えることのできる「場」を一つでも多くつくれますように。ご協力お願いします。
 

(古賀早織)

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