こんにちは。歴博の仁藤です。引き続きの応援、ありがとうございます。皆様の温かい応援コメントに感謝の思いとともに、託された思いをしっかりと実現できるよう、プロジェクトを進めていかなければと思いを新たにしています。

 

本日は、正倉院の歴史の六回目です。

 

紫香楽宮に近い甲賀寺(史跡紫香楽宮址内裏野地区、現滋賀県甲賀市信楽町黄瀬牧)における大仏の造営には、池や溝、橋の造営など数々の社会事業を実践し、民衆から支持を得ていた行基が勧進の役割を担いました。

 

ところが、この造営は天平十七年に頻発した地震や火事、さらには反対勢力の抵抗により中止されてしまいます。

 

平城京に還都すると大仏の造営は、大養徳国金光明寺で再開されることとなり、これにより大仏造営と金光明寺が一つのものとして合体します。

 

金光明寺が「東大寺」と呼ばれるようになったのは、天平十九(七四七)年)十二月二十五日付の正倉院文書「東大寺写経所解」を初見とします。「東大寺」の名前は、平城宮の東に位置することから付けられた名称です。 (次回に続く)