翌年5月、1年3ヶ月あまりの入院治療の後(のち)、22人の第5福竜丸の乗組員は、完全に体が回復したのではないが、自宅療養ということで退院した。遠く太平洋、赤道直下までマグロを追った海の男達は、元の体への回復を祈りながらも、ついに再び遠洋の海に出ることはなかった。いつまた発病するのか、結婚は出来るのか、子供には影響が無いのかと、誰もが様々な不安を抱えながら、後の人生を歩み始めることになった。
佐吉もその中のひとりであったが、病状は進行し体を蝕み続けていた。ふるさと焼津に帰った佐吉は何度目かの祭りの音を遠くに聞きながら妻のみすずと話ていた。「焼津に戻ってっからもいろんことが有ったっけなぁ。俺(おらー)いたわってくれる者(もん)もいたけぇが、「おめぇっちん、あんな所(とけい)行って原子マグロなんてなぁもんを持ってきたもんで、こんな事になっちまったでぇ。魚ぁ取れねえし、水産業(さかなや)の商売もまるっきりダメになっちまったぁ。漁師は廃業だしどうしてくれるでえっ」って言われたこともあったなあ。せえだけんみすずな、俺(おれ)もお前(めぇ)も水爆実験の犠牲者ってのは間違(まちげぇ)ねえし、俺(おらぁ)非難するみんなも犠牲者だけぇ、互いにいがみ合ってるより、早く問題を解決することに一丸となって進めるようになりやぁ良(え)ぇだけんなぁー。祭りにも行きてぇけえが、人の目(めん)が気になっちゃって仕方(しょん)ねえし、ちっとばかぁ貰った保証金の事を「エエな~、おまっちゃ沢山(たぁくさん)金(ぜにょー)もらって。俺(おら)も福竜丸に乗ってりゃ良え(えぇ)っけやー」何ぁんてゆうのもいるもんで、俺(おらぁ)目立たねぇようにいつも小(ちーっちゃ)くなって生きてるでぇ。またあの日みてぇに神輿(こし)を担いでみてえけぇが・・・この体じやぁさ、この思いも叶いそうもねぇなぁ・・」と・・・続く・・・・・

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