佐渡島に行ってきました。
出会いは雅楽、特に龍笛(雅楽で使用する横笛)の演奏法に関する質問の
メールでした。そこから、私自身が佐渡島に行き、実際に龍笛を指導する事に
なりました。指導するに当たり、折角ならば本物の龍笛を聴かせてほしい、と
いう要望を受け、急遽ミニコンサートを開催する運びになりました。


佐渡島と雅楽。
能楽や和太鼓なら何となく繋がりが想像できますが、やはり雅楽はあまり縁が
深いようには思えませんでした。
今回、私を呼んで下さった方はずっと佐渡に住んでいる方ではありませんでした。
福島・川内村に在住し、原発事故により全村避難を余儀なくされ、
佐渡島に移住してきた方でした。終の棲家を佐渡島と決め、家を買い、
これから佐渡島で生きていく覚悟を決めた皆さんが私を呼んでくれたのです。
その話はあまりにも衝撃的でした。長くはなりますが、その話をここに書きたいと
思います。仮に、その方の名前をAさんとします。

 

2011年3月11日午後2時46分。金曜日であり、週末の為にお金を下ろそうと
ATMの前にいたAさんは強烈な揺れに襲われます。
川内村は福島第一原発から20キロ離れています。地震当初は、原発の事など
全く頭の中に無かったと言います。それよりも津波。津波の被害者が沿岸部から
川内村の公共施設に押し寄せ、物流が止まっている為に食料も無く、パン焼きを
趣味とするAさんはせっせと家でパンを焼いて避難所に持って行っていたそうです。
携帯・メールは全く使えず。原発の話など全く頭に無いAさんは翌土曜日・日曜日と
普通の生活をしていました。
四日目の月曜日。いつものように避難所にパンを持っていくと警備が以上に
厳しくなっていました。警備員は見た事の無いようなマスクをしている。
警備員に、
「関係者以外立ち入り禁止です!」
と厳しく咎められ、食料のパンを持ってきたと伝えるとそこに置いて、すぐに帰れとの
対応。不思議に思ったAさんは家に帰ると、いきなり携帯電話が鳴ります。
電話が四日ぶりに復旧したのです。

Aさん「もしもし」
Aさんの友人「もしもし?あなた今どこにいるの?」
Aさん「えっ?家だけど」
友人「家って福島?なんで逃げてないのよ。今すぐ逃げなさい!」

半ば叱責に近い電話でした。聞けば、原発がいよいよ危ない、とのこと。
ここで初めてAさんは原発の事を知ったそうです。あの警備員のマスクもこれで納得。
しかし、逃げようにもどこに逃げれば良いのかも分かりません。そして移動手段となる
車のガソリンも無い。ガソリンを買おうにも、お金が無い。ATMで出金中に地震に
あった為にキャッシュカードがATMに吸い込まれてしまったのです。
Aさんは途方に暮れ、そして全く情報をくれない行政に対して猛烈な怒りが
湧き上がってきたそうです。

では行政は機能していなかったのか?そうではありません。防災放送で色々な
指示があったそうです。食料が無いから、皆さんありったけの食料を出してくれ、とか
村のガソリンは全て無くなった、とか。ですが肝心の原発事故の情報は無かった、と。
と、その日の昼の防災放送で村長が気の抜けた声で全村避難を宣言。
車で逃げられる人間は今日中に村を出て行け、移動手段の無い人間は何時までに
役場に集合、バスで村を脱出する、と。

Aさんには病弱のお母様がおられました。とても長時間の移動に耐えられるとは
思えません。そこで本人に今の状況を話し、聞いてみる事にしました。すると、
「何としてでも逃げる!」と。これで長年住み慣れた川内村を離れる決意をしたそうです。

Aさんはもともと川内村の住民でもありませんでした。長らく埼玉県内に暮らし、
御主人の定年後川内村に家を買い、長年の夢であった田舎暮らしを満喫していました。
このような定年後の移住者が福島県内にはかなりおられたようです。
なので原発事故が起き、放射能汚染が心配という情報を掴んだこのような移住者は
何のためらいもなく福島を捨てたそうです。放射能にまみれて余生を過ごすのは
ゴメンだと。…少々心の痛む話ですが、まあ仕方が無いのかもしれません。


さて、避難を決めたAさん一家でありますがそんなに簡単にはいきません。
まず車を動かすガソリンが無い。家中の農機具を掻き集め、何とか息子夫婦の住む
埼玉までは走ることの出来る量を確保。寝たきりの母を後部座席に乗せ、大渋滞の中
18時間掛けて埼玉までたどり着いた、とのこと。

埼玉はAさんが長年住んでいた場所。Aさんが買った家は、今では息子さん夫婦が
住んでいるそうです。避難して二週間、ある日息子の奥さんが何気なく、
「お母さん達はいつまでここにいるのですか?出来れば幼稚園が始まる前に
 出て行って欲しいんですが…」
と言ってしまったのです。Aさんは相当ショックを受けたそうです。元々この家は
私たちの家だったはずではないか!しかし、病床の母もいる。そう強く言う事も出来ず、
また新たな避難場所を探す事になります。

避難者に全員が親切、というのは理想でありますが現実ではありません。
ここぞとばかり、付け込んでくる輩もいる訳です。Aさんの場合は住む家を探す必要が
あります。ここで、誰も住んでいないボロ家を高額で売りつけようとする不動産業者に
出会います。ここでも大きなショックを受けたそうです。

それでは行政はどうか。被災者支援を行っているか?と埼玉県に問い合わせたところ
今のところそのようなことは行っていない、とけんもほろろに断られます。
いよいよ住むところが無い、と切羽詰まった状況で朗報が飛び込みます。
新潟県の佐渡市が被災者を受け入れる、と。向こう半年間、ホテルを無料で泊まれる
ようにする、と。その情報をくれたのは、殆ど付き合いの無い遠い親戚でした。
ただ、まだこの法案が議会を通っていないので、通り次第連絡するという約束をもらい
数日経たず内に「すぐに佐渡島にお越しください」という有り難い連絡をもらいます。
すぐに佐渡島に渡り、市から提供されたホテルに滞在し、新居を探しました。
新潟県は先に起きた中越地震で甚大な被害を受けました。その御恩返し、では無いですが
特に被災者支援に力をいれた自治体の一つでありました。
福島から佐渡島に移住した方は結構おられ、Aさんもその住み心地に感動し、
色々な被災者の方に声を掛け、三家族が移住することになりました。


ようやく築150年の民家を譲り受けることが出来、それを改築して現在の住居と
なりました。その家の前には神社がありました。この神社には神楽があるのですが
後継者難で最近はもう行われていないそう。それを復興しよう、ということになり
まず笛を吹く稽古をしようと考え、皆を誘うと続々志願者が。その数は30名近くなり
楽器店に30本の龍笛を発注し、笛の稽古を始めます。
ただ、龍笛というのはそんなに簡単な楽器ではありません。色んな本・サイトを巡り
情報を収集している間に私に辿りついた…という次第です。


この話を酒を飲みながら…ではなく朝食後、二時間掛けてAさんはゆっくりと
話してくれました。ニュースや新聞で得た情報など、全く一部分である事を痛感しました。
Aさんには建てて間もない、新しい家がまだ福島にあります。佐渡島に移住を決め、
福島に荷物を取りに帰ると羨望とも妬みとも取れる視線を感じるそうです。
Aさんも、出来る事なら福島に帰りたい。でも、放射能に怯えて生きるよりも、
申し訳無いが何も気にせず佐渡島でゆっくりと生きる事を選んだ、ときっぱり
言いました。誰がこんな状況にしたのでしょう?


我々の南相馬での雅楽慰問演奏プロジェクト、Aさんをはじめとする佐渡島に
移住した福島出身の皆様に話すと涙を流して喜んでくれました。
福島を捨てた後ろめたさもあるのでしょう。でも、今も福島に住む人たちがいる。
私たちは何も出来ないけど、せめて支援金の足しに、とカンパを下さいました。
我々のプロジェクトは、もはや我々のものだけではありません。
心を強くもってこのプロジェクトに挑むことを決意いたします。
 

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