(17真打ちとの十年___古今亭 八朝 師匠と女将さん(前編)の続き)

古今亭八朝師匠の女将さん乃理子さんの通夜の翌朝、旅の荷物をガラガラ引きずって同じ斎場を訪れた。小雨の中、告別式は粛々と続いた。出棺の前、喪主挨拶で初めて古今亭八朝師匠が参列者に向かって挨拶をなさった。
 

「6月3日、藤山直美さんの舞台を乃理子と一緒に観て、腹を抱えて二人笑いました。その後お客さんと一緒に会食しているときも、乃理子はとても楽しそうで、いつものように機嫌良くお酒をいただいておりました。
 

日が変わった4日の午前零時半頃、僕の運転で帰宅して、駐車場に車を置いて歩いて家に向かっているとき、後もうわずかというところで乃理子が僕にしなだれかかって来て、そのまま二人とも転んでしまいました。その時乃理子は『酔っちゃったぁ!』と言って、にこぉっと笑ったんです。…… それが最期でした」
 

女将さんが起き上がれないので、師匠が背負って家の中へ。女将さんの意識がなくなってしまったので慌てて救急車を呼んだけれど…。
 

「乃理子は生前、ぽっくり死にたいとよく冗談で話していました。もしも私がそんなことになったら、救急車を呼ぶのを10分だけ待ってと。10分待ってから救急車を呼んだら、それから来るのにまた10分。それで私は植物人間になったりせずに、ぽっくり逝けるから。お願いね。乃理子はその通り実現してしまいました。ある意味大した死に際だったと思います。ただし、私を残して…」
 

持病を持っている師匠をあらゆる意味で支えた女将さんだった。
薬の世話からスケジュール管理、仕事先では付き人やマネージャーの役割もこなしていたのが乃理子さんだった。
 

誰もがこの先の師匠のことを案じていた。
わずか四年と二ヶ月しか一緒にいられなかったお二人。

通夜の晩、僕が、いつも師匠の運転でハシゴさせてもらって、僕と女将さんが飲んだくれてましたよね、と言ったとき、師匠は、

「でもね、乃理子がいなかったら俺は飲みに行けなかったから」
 

病気のためにまったく酒を飲まなくなったのに、師匠は酒の席にいるのが大好きだった。今まではただそう思っていた。でもそれは「乃理子さんと一緒にいる酒の席」というのが正しそうだ。きっと師匠は、乃理子さんが嬉しそうに酒を飲んでいるのを見ているだけで幸せな心持ちになれたんだ。そうに違いない。
 

師匠の喪主挨拶は、乃理子さんとの幸せな日々への感謝の言葉で締めくくられた。

 

 


 

2010年の七月はイベントで大わらわだった。

 

僕が企画した吉田類さんの催事が七月十日、十一日に札幌で開催が決まっていた。直前に上京してご当人と類さんの俳句の会の事務局長と最終打ち合わせを済ませたのだけど、さらに七月十五日には札幌のわが風の色が寄席に変身するというもうひとつのビッグイベントが続くことになっていた。

七月五日月曜日は、そちらの出演者である噺家の古今亭八朝師匠とお目にかかった。

 

場所は日本橋室町の砂場。

八朝さんの師、三代目古今亭志ん朝が最も愛した蕎麦屋だったと伺って、蕎麦好き、落語好きとしては感無量である。

志ん朝師匠は2001年に六十三歳の若さで惜しまれながら世を去った、現代の名人の誉れ高い落語家だった。父親は五代目古今亭志ん生、兄は十代目金原亭馬生。サラブレッドである。

 

「ウチの師匠は、高座がはねると、よくここに俺を連れて来てくれたんだ。いつも緊張してたなあ」
「え!? 師匠でも緊張するんですか?」
「当たり前だよ。師匠と弟子ってのはそういう関係なんだ。この世の中で一番尊敬している人なんだぜ。世界で一番好きな人なんだ」

 

志ん朝師匠が亡くなられる前、もうほとんど食べ物を口に出来なくなっていた頃。入院見舞いの弟子たちを前にして「石町(こくちょう/日本橋室町の別名)の砂場の蕎麦が食べたい」ということになり、八朝師匠がこちらに訪れた。砂場のはからいで蕎麦猪口まで用意してもらって病院に運んだという。

 

「でもさ、師匠はほんの二本くらしか食べられなかったんだ…。全員集まっていた弟子たちは、みんな泣きながら蕎麦をすすっていたんだ。
ようやく最近だよ。泣かないでここの蕎麦を食べられるようになったのは」
 

志ん朝師匠が好んで食べていたという「天抜き(こちらでは天水/てんすい)」を八朝師匠が頼んでくださる。一滴も呑まない八朝師匠に勧められて、お銚子を一本だけいただく。これまでも、蕎麦好きの八朝師匠と何度かこんな風に蕎麦屋酒に興じたことがある。ただひとつだけ違うのは、師匠の隣に女将さんの乃里子さんがいないことだ。
 

 

このちょうどひと月前、乃里子さんは急逝された。

いつものように呑めない師匠と楽しくお酒の席をご一緒されて、いつものように師匠の運転で夜遅くに帰宅して、車を降りた所で転倒。「酔っちゃったぁ」と倒れたままにっこり笑って、それが最期だったという。師匠の運転ではしごさせてもらいながら、僕と女将さんが呑んだくれる。ずいぶんそんなことがあった。
 

僕は乃里子さんの通夜と告別式に参列した。
 

師匠の師匠、古今亭志ん朝さんが最も愛した日本橋室町の砂場で、八朝師匠が突然扇子を取り出した。
 

「これはね、林家いっ平が真打ちに昇進したとき、赤塚不二夫先生がお祝いにくれたものなんだけどね。まわりまわってウチにいただいてさ、乃里子は汗っかきなもんだから、いっつもこれ使ってたんだ」
 

そういえば見覚えがあるような。
 

「これもらってやって。あげます」
「ええ? だって乃里子さんの形見じゃないですか!」
「形見はたくさんあるから」
「そんな …… 。ありがとうございます。大切にします」
「いいよ、大切になんかしなくても」
 

僕は胸が締め付けられた。

 

 

「ウチの師匠はね、本当はビール好きだったんだけどね、この店であるお客さんに『蕎麦屋だってえのに最初にビール飲む奴がいるのは野暮でいけませんやねえ』とか言われてから酒だけにしたみたいだな。

 

さあ、蕎麦屋の長っ尻はまずいから、そろそろ〆のそばだ。ここはね、量が少ないから気をつけないといけないよ」

 

 

何を気をつけるのかよく意味が分からなかったけれど、僕は古今亭志ん朝師匠がいつもそうしていたという通りに、もりを一枚、そうしてかけそばを一杯いただいた。

日本橋室町の砂場から十日後の2010年七月十五日。
前座さんではなく、弟弟子にあたる真打ち、古今亭志ん馬師匠を伴って八朝師匠は寄席に設えられた札幌は狸小路の風の色で約束通り高座を務めてくださった。

名付けて「志ん馬と八朝、ふたり合わせて古今亭志ん朝の会」!


 

 

 

《エピローグ》


三年前の2012年の十二月に、小樽の嵐山新地で風の色を始める時、いつか八朝師匠が落語文字の大家に頼んで作ってくれた名入りのお札のついた携帯ストラップのことを思い出し、その方に風の色の名を入れた提灯を作ってもらえないだろうか、と八朝師匠に相談した。店の入り口にその提灯を下げたいのです、と。

その落語文字の師匠が大病で倒れてしまい、そのアイデアは叶わなくなった。

「代わりにといっちゃなんだけどさ、これをあげるよ」



 

八朝師匠は板橋区役所前でパブを営んでいた( 当時)。
 

その店の開店の際に贈られた古今亭志ん生の名が書かれた落語文字の提灯。

古今亭志ん生とは至高の名人。八朝さんの師匠の師匠、古今亭志ん朝さんの親父殿である。

そして贈り主は美濃部美津子さん。志ん生の長女である!

その価値のわかる人なら目がつぶれそうに感じるほどの大変な提灯かもしれない。

長男は十代目金原亭馬生(初代古今亭志ん朝)、次男は三代目古今亭志ん朝。孫に女優の池波志乃(十代目馬生の娘)。俳優の中尾彬は池波の夫で、義理の孫に当たる。
 

 

 

 

 

八朝師匠はこの美濃部美津子さんにとても可愛がられていた。美津子さんとは八朝師匠を通して何度かお目にかかったことがある。近年は施設に入られたと聞いた。

 


「こ、こんな大切なものを…」

 


乃里子さんの形見分けをいただいた時と同じだった。僕は師匠の大きな愛情をまたひとついただいたような気持ちになった。

古今亭八朝師匠と東京-北海道で再会して約十年。僕の駆け出し時代に東京で最初に出逢ってから三十年ほどになる。

 

 

乃里子さんの形見の扇子も、

美津子さんから贈られた志ん生師匠の提灯も、
どちらも小樽嵐山新地の風の色にある。



 

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