【香典返しとハロウィン】

「漆器屋の社長が死によって葬式に行ったんですけど、京都だけやのうて日本の都会ではこの頃葬式行っても香典は受け取らへんってなってますやん。ところがその漆器屋は受け取りよるんですよ。なんでやいうて考えてたら、はっきり言うて漆器屋はんとか陶器屋はんとかは慶びごと、お悔やみごととか、その時の喜びとか悲しみとかの気持ちをモノで伝えてきたという土壌の上に商売が成り立ってきたわけです。漆器屋はん死んで、そういう意味で香典取ってくれたんやなと。

 

逆にそういう風な香典返しもなくなってますけど、私も親父を送った時にも高島屋で考えてる時に、その人がお茶が好きやとか、この人はお菓子にうるさい人やとか、香典返しする時にでもその人のなんていうんですかね、お茶を返すんだったらどこのお茶を返すのか、どんなお茶を返そうかという風にね、なんちゅうんすかね、ひとつひとつのことが、その人らとの関わりの中で起こってきたことやというのを慣習を通して認識せざるを得ない。

 

でも今は違うんですよね。ハロウィンやなんやとか日本の生活圏とは全く関係のない、よう知りませんけどケルトの文化が発達してきてとか、わーっと仮装するのを楽しんでますけど、その意味とかはどうでもいいわけです。仮装したいだけ。それを文化というのかどうか、ということです。

 

 

香典返しする時にその人の生活、日常を思って常日頃どういう風にその人のことを自分が意識してんのかという、改めて検証させられる場面があるわけです。それで今度次になにがおこってくるかというと、自分はどういうもんを大事にしながら生きてくのかという自分を問わならんという往復の中で物事が起こった時に、そういう思考をする場面もなくなってきているという。

 

全部与えられたもんや仕掛けられたもんの中にいるんですわ、この頃の日本人見てたら。そやから私らモノを見ててもスーッと冷めて行くんですよ。そういう風な思考の中で物事ていうのはずうーっと続いていくんですよ。」

 

(つづく)

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