プロジェクト概要

 

マチュピチュ村の村長となり、日本人として村を発展させた野内与吉

故郷・大玉村に資料館を作り、この歴史を語り継ぎたい!

 

はじめまして、野内セサル良郎です。実は、マチュピチュ村を発展させ、村長となった人物が日本人だったことを知っていますか?わたしは、このマチュピチュ村を創った野内与吉の孫です。

 

今年はそんな祖父・野内与吉がペルーに渡って100年の年です。祖父がきっかけとなり、マチュピチュ村との友好都市締結が実現した大玉村に野内与吉資料館を開設し、後世に語り継いでいきたいと思っています!

 

100年前ペルーに渡り、インフラを整備し、村を作り上げた野内与吉の歴史を資料館に残していくことで、かつて外国に渡り、現地で功績を残した日本人たちの歴史を語り継いでいきたいと思います。ぜひその一歩となる今回の資料館づくりのお力をお貸しいただけないでしょうか?

 

開発が始まった頃のマチュピチュ村の様子
現在の賑わうマチュピチュ村

 

 

マチュピチュを数家族の集落から一大観光地へ

 

裕福な農家で育った野内与吉は、海外での成功を目指して、今から100年前に遠くペルーの地に、契約移民として、降り立ちました。様々な困難を乗り越えた後に、ペルー国鉄に勤務し、線路拡大工事に携わった与吉は当時最終地点であった、マチュピチュに移り住んだことをきっかけに、この地の発展に努め、電気も水道もない数家族の住む集落を、現在の姿へと大きく発展させる原動力となりました。

 

はじめはもちろん未開とも言える地に、足を踏み入れ、一から水を引いたり、水力発電を導入して電気を引いたりと、それは苦労が耐えなかったと思います。またそれだけではなく、手先が器用で現地の人たちのために様々なものを直したり、語学力を活かしてガイドも行い、マチュピチュの拠点となる、「ホテル・ノウチ」を作りました。この場所を無償で、村のために開放し、そこは郵便局や交番、村長室や裁判所としても使われる場所となりました。

 

大きな災害の際にも、率先して国への訴えを行い、その功績を買われ、公式にマチュピチュ村の村長となりました。異国の地で、一からこうして村を作っていくことは、並大抵のことではありません。与吉は自分が利益を得るだけではなく、村のために多くの力を割き、村人たちの生活の向上に努めました。その結果、村人から愛され、厚く信頼される存在となったのです。

 

現地での活動の様子

 

こうして100年前に力を尽くしてくれたひとがいたからこそ、今の我々があると考えています。自分自身、16歳の時にペルーから来日し、言葉も通じず、ペルーに帰りたいと何度も思い、悔しい事や辛い事も数えきれないほど経験しました。

 

しかし、これらを乗り越える事が出来たのは、祖父「野内与吉」のおかげです。祖父が異国で諦めず、人のために尽くした功績がいつも私を勇気づけてくれました。そんな祖父に恩返しの一つとして、資料館を開設したいと思います。

 

今の日系人の存在は当時現地で力を尽くした野内与吉のような存在がいてくれたからだと思っています。ぜひこの歴史を後世に伝えていきたい、そして自分が祖父に勇気づけられたように、異国の地で頑張る人々を勇気づけるきっかけになればと、このプロジェクトを立ち上げました。

 

 

 

資料館詳細

 

資料館は、野内与吉の故郷 大玉村にある温泉旅館「金泉閣」の一角(大広間)をお借りし、設立します。

 

■場所:福島県・安達郡・大玉村 大玉温泉・金泉閣内

 

■展示品

・野内与吉氏遺品(約20点):マチュピチュ鉄道関連の工具、愛用品等。

・写真パネル展示(野内与吉の歴史紹介、ペルー国紹介、マチュピチュ村紹介、大玉村紹介、マチュピチュ遺跡紹介、マチュピチュ村と大玉村友好都市締結の経緯。天野芳太郎氏の紹介、資料館開設までの歴史。)

・古代アンデス文明展示:土器

・現代アンデス文明展示:民族楽器、民族衣装など

 

今回のプロジェクトで、ご支援頂きました資金は、資料館の開設初期費用として、展示のための備品や展示品の輸送費などに充てさせていただきます。資料館では、祖父の歴史をはじめペルーの文化を感じて頂ける空間とします。 福島県の偉人として語り継ぎ、福島の新たな観光地として、地域を活気づける場としていきたいと思います。

 

大玉村温泉 金泉閣の外観

 

展示品の一部

 

 

ペルーで活躍した日本人の偉業を残していくとともに、新たな交流の場としていきたい。

 

資料館を立ち上げることで、ペルーで活躍した野内与吉の功績を忘れてはならない歴史として語り継いでいくとともに、彼をきっかけに現在結ばれている、マチュピチュ村との友好都市としての交流をもっと深めていきたいと思います。

 

そして、この資料館をきっかけにこの地に沢山の人が訪れてくださるようになれば、地域自体ももっと活性化していくと思います。古く100年前に異国に移り住んだ野内与吉が、地元の人々から愛されたように、その故郷である福島・大玉村で、村の人から永く愛され、交流の場となるような資料館づくりをしていきたいと思います。ぜひ応援、宜しくお願い致します。

 

大自然が広がる福島・大玉村

 

■野内与吉の物語

 

 

ペルーの世界遺産で世界的にも知られているマチュピチュ遺跡、この遺跡の麓にあるのがマチュピチュ村である。野内与吉は、この村の為に生涯を捧げた人物である。福島県安達郡大玉村出身の彼は、裕福な農家に生まれるも海外で成功したいという夢を抱いて、1917年に契約移民としてペルーへ渡った。

 

はじめは農園で働いたが募集内容と現地の労働条件の相違により1年で辞め、ブラジル、ボリビアなどを放浪する。1923年頃にはペルーへ戻り、クスコ県にあるペルー国鉄クスコ-サンタ・アナ線に勤務し、さまざまな事業に携わった。与吉の功績により、1929年にはクスコ~マチュピチュ区間の線路が完成し、それがきっかけとなりマチュピチュ村に住むこととなる。

 

手先の器用だった与吉は、何もないマチュピチュ村に川から水を引いて畑を作り、水力発電を作り、村に電気をもたらした。村を住みやすくするため木を伐採していた際に、温泉が湧いたという証言もある。(現在マチュピチュ村に温泉がある)。また、村で故障した機械の修理なども行っていたようである。また、与吉はスペイン語のほか先住民の言語であるケチュア語に通じ、英語も喋ることができたため、現地のガイドもしていた。 創意工夫に富み、労をいとわず、マチュピチュ村のために尽くして皆に喜ばれていたようである。

 

1935年には、この村で初の本格的木造建築である「ホテル・ノウチ」を建てた。建物の一部には線路のレールが利用され、床は当時では高価だった木材を用い、3階建てで21部屋を持つ立派なホテルであった。与吉はこのホテルを村のために提供し、1階は村の郵便局や交番として、無償で貸していたという。その後には、2階も村長室や裁判所として使用されるようになった。こうして、「ホテル・ノウチ」が村の中心となってマチュピチュ村は発展していった。

 

このような活動から、与吉は村人に信頼され人望を集め、1939~1941年にはマチュピチュ村の最高責任者である行政官を務めた。マチュピチュ村が正式に村になるのは41年のことで、与吉はその直前に村の実質的なトップについたことになる。

 

1947年にはマチュピチュ村の川が氾濫し、村は大きな土砂災害に見舞われた。そこで与吉は住人達とともに、地方政府あてに緊急支援を依頼した。この際に地方政府からの命令で、復興のため1948年に正式にマチュピチュ村・村長に任命された。1950年頃、与吉はペルー国鉄クスコ-サンタ・アナ鉄道で再度働くために、クスコ市へ移り住むこととなり定年まで勤めた。

 

1958年には、三笠宮殿下がペルーを訪れ、マチュピチュ遺跡を見学した際に、与吉の長女が三笠宮殿下に花束を贈呈した。日本にいる家族がその新聞記事を目にし、与吉の消息を知ることになる。そして日本大使館を通じて与吉と連絡をとり、旅費を集めたおかげで、1968年与吉は故郷である福島県大玉村に52年ぶりに帰郷することができた。

 

与吉の両親はすでに他界していたが、兄弟や親戚が与吉を歓迎した。与吉は日本に着くと「電気はついたか?」と質問したそうで、彼の中で時間が当時のまま止まっていたようだ。滞在中は、マチュピチュ遺跡に関する講演会を開くなど、村人にペルーの魅力を伝えていたようである。また、地元の新聞やラジオ番組に出演し、半世紀ぶりの帰郷に「今世浦島(現代の浦島太郎)」と紹介され、その音声も残っている。日本に戻るよう家族は説得したが、ペルーには家族が待っているからと日本の家族と別れ、ペルーに戻り翌年の1969年8月29日に息を引き取った。

 


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