昨日もご支援を戴きまして、少しずつではありますが確実に目標金額へ向けて動いております。

 

最後まで頑張りますのでご支援の程宜しくお願い致します。

 

湿原の5月 アクリル画 松本直樹

 

個展までも残り10日を切りました。

 

必ず成功できますように精進しますので、ご高覧戴けましたら幸いです。

 

 

松本直樹 北の自然展2018 ~道東の自然と釧路の街並み~

2018年6月18日~6月29日

 

会場:大地みらい信用金庫 釧路東支店

住所:北海道釧路郡釧路町桂5-1-4 (国道44号線沿い、近くには大型ショッピング施設のイオン様があります)

時間:9時~15時

 

 

では、第5回目の続きとなります。(続きものとして書いていますので、初めてお読みになる方は是非過去の投稿もご覧ください。)

 

札幌での専門学校1年生も夏が終わりパニック障害の発作が頻発する中で追い打ちをかけるように親からは「仕送りが出来なくなったから釧路へ戻ってくるか、働きながら学校へ通いなさい」と選択を迫られ、泣く泣く働きながら学校へ通う決意をした私。

 

今から丁度15年前の出来事でした。

 

 

バイトと言えば高校時代に年末年始のスーパーの品出し仕事を3日間しただけの私でしたから、ただでさえパニック障害の発作が頻発しているのに不安で不安で仕方がありませんでした。

 

高校野球をやってきたので礼儀や受け答えには自信があったのですが、「過去にバイト歴らしいバイト歴が無い」「持病を持っている」と言うことを理由になかなかバイト先が決まらなかったのですが…

 

9月の末頃に、近くのスーパーで面接担当者が強豪校の野球部出身と言うこともあり、私の野球部のことも知っていてくださり私のことを気に入ってくださいました。ススキノ裏のお客さんも多いスーパーであったので色々と心配な部分もありましたが無事に合格し仕事をすることが決まりました。

 

 

週4回、18時から閉店の23時までが勤務です。最初の2週間程は発作と体調不良に耐えながらも、朝から17時まで学校。そのままバイト。帰宅して朝方まで課題と投稿用の漫画制作と言う毎日を送りました。

 

しかし、全くと言って良い程に食べ物を受け付けない身体であったので、疲労はすぐに蓄積され発作の回数はどんどん増していきました。

 

学校ではエレベーター内だけでは無く、教室内で講義を受けるだけでも毎日発作が起きるようになりました。その度にトイレへ行き、便器に座りしばらく身動きが取れなくなると言うことも日常的に…

 

 

心療内科は私の住んでいた中央区から離れた場所にあったため地下鉄に乗っていく必要があったのですが、遂に地下鉄のホームに降り立つだけでも発作に襲われるようになり、ベンチに座りながら何本も電車をやり過ごすと言うことも増えました。

 

日常生活のほぼ全てに制限がかかるようになってきたのです。

 

 

そのような中、頑張っていたことは2つ報われました。

 

1つは、学校代表と言う形で当時中国で行われたアジアマンガサミットに作品を出すことになりました。

 

学校では平静を装うように努めていたので、講師陣はまさか私が病気で苦しんでいるなど思っていなかったでしょうし、課題もほとんど1番乗りで出すようにも心がけていましたので自分で言うのはおかしいですが、評判はそこそこ良かったと思います。

 

そのような理由もあり、2つ目として当時北海道で始まったばかりの漫画スカウトキャラバンにこちらも学校代表と言う形で作品を持ち込むことも決まりました。

 

スカウトキャラバンとは簡単に説明をしますと、地方の漫画家志望者はなかなか東京の出版社へ作品を持ち込むことができませんので、出版社の方から全国各地で出張の作品持ち込みを受け付けてくれるイベントです。

 

雑誌名は伏せますが、人生で初めて作品を見てくださった編集者さんは、あの手塚治虫先生の担当編集者だったのです。

 

私は発作を抑える頓服薬を飲みながら作品をお見せしました。

 

学校代表と言う形では行きましたが…

 

その場から逃げ去りたい、一生この思い出を封印したい程にボロボロに指摘されました(笑) 心のどこかでは、これをきっかけに同級生でプロ一番乗りをと甘い考えも持っていましたが、わずか数分でその想いはかき消されてしまいました(笑) 同じく代表として来ていた2人の友人も、あまりの酷い言われように泣いていました。

 

それ程までにキツく厳しい世界なんだと言うことを思い知らされた出来事でした。

 

 

結果は散々でしたが、もっと散々だったのがバイトの方です。

 

あまりにも発作が頻発してしまい、週に4回だったシフトのうち、毎週のように1~2回を体調不良で休んでしまったのです。

 

当然、社員さん達は怒ります。ただ、私を応援してくれている面接担当だった上司は私が病気で現在も治療中だと言うことを親身に聞いてくださり、出来る限り私の体調に合ったシフトを組んでくださりました。

 

 

師走になる頃には更に更に体調は悪化。

 

専門学校も毎週のように休むようになり、病院へは発作で地下鉄に乗れないため通院することが不可能となり、自分の住んでいたアパートから徒歩圏内で行くことのできた心療内科へ転院することになりました。

 

 

転院後の初診では血液検査をしたのですが、医師から「肝炎の可能性が高い」と言われ釧路から母を呼ばれる事態になりました。

 

どうやら薬の飲みすぎと栄養のあるものを全く食べていなかったので、肝臓の数値が異常となっていたようなのです。

 

この出来事を境に、母は私の住む小さな小さなマンションに移り住んできました。

 

それとほぼ同時に奨学金の審査が通りまして、金銭的に少しだけ楽になったこともあったので、それだけでは無く同僚に多大なる迷惑をかけてしまっていたのでバイトも辞めることにしました。

 

母が側に居ることと、バイトをする必要が無くなったために再び漫画作りに集中することが出来る不思議な安心感も私の心を包みました。

 

 

そして不思議な感覚のまま年が明け2004年。私にとって次から次へと人生が動いた1年が始まりました。

 

 

始まったと同時に、当時病気で正常な判断をすることが出来なかった私はここで信じられないような決断をしたのです!

 

 

「病気が治らないのはこの狭いマンションのせいだ!せっかく奨学金も入ったので病気を治すためにもこのお金を使って引っ越しをする!」と言い出したのです。今考えれば信じられない限りですが…

 

そのようなことのためにある奨学金ではありませんし、何より母は強く反対をします。

 

正常な考えの出来なかった私は、母を強い口調で説得し、引っ越し代で奨学金が無くなっても、引っ越し先で体調を戻し再びバイトを開始すれば良いだけのことと何とも安易な考え方をしてしまったのです…

 

これが破局的な結末になることを当時の私は理解できていませんでした。

 

今回も文字数が大変に多くなってしまいましたので、ここから先は次回投稿に続きます。

 

次回投稿は専門学校編の最終回について書いて参ります。そしてついにプロの絵描きに向けての道も大きく開き始めてきました。

 

 

そしてプロとして活動を始め来年で15年目の節目を迎えます。今後の画家人生のためにも節目に初の画集を出したいと決意しております。

 

皆様の暖かいご支援。心よりお願い致します。

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