こんばんは。

 

応援・ご支援、心よりありがとうございます。

 

いよいよ勝負としている個展までの日程が近付いて参りました。一人でも多くの皆様にご高覧戴けましたら幸いです。

 

個展ポスター 松本直樹

 

松本直樹 北の自然展2018 ~道東の自然と釧路の街並み~

2018年6月18日~6月29日

 

会場:大地みらい信用金庫 釧路東支店

住所:北海道釧路郡釧路町桂5-1-4 (国道44号線沿い、近くには大型ショッピング施設のイオン様があります)

時間:9時~15時

 

※ご高覧してくださった方々には個展を記念したポストカードをプレゼント致します。(数に限りあり)

 

ではシリーズで書いております私がプロとして活動をしていくまでのストーリーですが、第6回目の続きとなります。(続きものとして書いていますので、初めてお読みになる方は是非過去の記事もご覧ください。)

 

 

札幌の美術系専門学校へ入学し初めての年を越した2004年の初冬。病気で正常な判断の出来なかった私は、とんでもない決断をしてしまったのです。

 

それは…

 

「病気が治らないのはこの狭いマンションのせいだ!せっかく奨学金も入ったので病気を治すためにもこのお金を使って引っ越しをする!」

 

病気の悪化により2003年の終盤、実家の釧路から急遽私の住んでいた安いマンションに移り住んできた母は当然のことながら強く反対をしました。

 

 

ただ、毎日のように襲ってくるパニック障害の発作と極度の食欲不振による栄養失調状態にあった私は、「病気が悪化したのは環境が悪いから。ススキノのすぐ裏で深夜まで騒音も酷いし、部屋も狭すぎるために圧迫感で具合が悪くなる。きっと中心部から離れたところでもう少し広い部屋に引っ越したら病気もきっと良くなる。」

 

このように思って母を説得しました。

 

 

三が日が終わると同時に、渋々了承した母と部屋探しを開始。今のようにネットで何でも調べることのできる時代ではありませんでしたから、具合の悪い身体を引きずりながら不動産会社をハシゴしました。地下鉄はパニック障害の発作で乗ることができませんでしたから、基本的に全て徒歩です。

 

ただでさえ予算が無いのに、今よりも広い部屋を求めることは不可能に近い作業でした。それでも不動産の方に無理を言って何とか見つけることができたのが、札幌市中央区の外れで、徒歩であれば学校まで1時間は歩かなければいけない距離の物件でした。この時点で正常な判断ができていませんね(汗)

 

築40年。家賃4万円。2DK。

 

直ぐに引っ越し準備をして1月15日頃に引っ越すことができましたが…

 

移り住んだアパートは広さだけは満足できましたが、隙間風の入ってくるようなボロボロの作りにストーブは小さな灯油ファンヒーターが1台のみ。

 

引っ越し初日からあまりの寒さに風呂に入ることもできませんでした。

 

夜は悪夢と大量の寝汗が噴き出して、何度も涙を流しながら目を覚ましました。そして布団から一歩でも出ると極寒の寒さです。病気は良くなるどころか逆に悪くなってしまいました。

 

後悔しました。本当に後悔しました。悔やんでも悔やみきれませんでした。

 

正月休み後の専門学校も始まりましたが、あまりの体調不良に全く行くことができませんでした…

そしてこの頃からは、一日を通して身体が痙攣するようになり始めて、ほとんど布団から起き上がることもできなくなっていました。

 

心療内科の医師からは「直ぐにでも総合病院で診察をしてきなさい!」と言われ身体を引きずりながら中央区の某総合病院へ。

 

ここでもパニック発作が起こります。専門学校の建物に入ることだけでも発作が起きるようになっていたので、総合病院の広さと人混みは私にとってはアウトでした。

 

極度の嘔気で吐きそうになりながら、痙攣しながら何とか診察を受けました。そしてそこで、高校時代に初めて発作が起きてから今日までのことを全て包み隠さず医師に伝えました。

 

 

すると…

 

「あなたの病気は『パニック障害』と言う病気です。」と伝えられたのです。

 

今までは「不安神経症」と診断されていたのですが、この時初めて私の本当の病名を知ることができました。続けてパニック障害の症状を教えてくださったのですが、ほぼ全て私に当てはまり「ようやく原因が分かった」と言う安心感も少しだけ湧きました。

 

ただ、医師は続けてこう言います。

 

「松本さんの今の病状ではとても通学は無理ですし、何かあった時のことを考えて許可はしません。1年間休学をするか、潔く学校を辞めて釧路の実家に帰ってください。」との選択を選ばされることになりました。

 

野球の夢を病気で諦めざるを得なかった私は、もう一つの夢であったプロの漫画家・画家にどうしてもなりたくて、病を隠してまで札幌の専門学校へ進学をしたのですが、ここで万事休すでした………

 

仮に1年間も休学をすれば、学校側も私のことを「即戦力」として漫画家の先生のアシスタント等に推薦もしてくれなくなるでしょうし、(ただ「卒業」をすると言うことになってしまうでしょう…)何より生活費が持ちません。

 

 

心の底から悩んだ末に、自主退学をして釧路に帰る選択をしました。

 

涙も枯れ果てて、もう何も出ませんでした。

 

命をかけて取り組んでいたものでしたから、「松本直樹の人生はここで終わったな。」と本気で思いました。後の人生は病気に苦しみながら廃人のように生きるのだろうと…

 

 

同時にあまりにも恥ずかしくて学校に行く気も起きませんでしたから、郵送で退学届けを送りました。同時にありったけの気持ちを籠めて、担任の先生と特に仲良くしてくださった先生にお手紙を同封しました。

 

 

このアパートに引っ越したばかりなのに、母は不動産会社やアパートの大家さんに何度も何度も詫びを入れ、わずか2週間の新生活を終えることになりました。

 

そして1月31日。

 

父が会社からトラックを借りて来て札幌まで引っ越しの荷物を積みにきました。フラフラな身体で私も作業をします。

 

 

空は晴天。

 

帰りに札幌大通り公園に隣接している母校の専門学校を見ました。反対側では札幌雪まつりの雪像作りがピークを迎えていました。

 

「全てが終わったんだ」と言う絶望と、同時に慣れ親しんだ実家に帰ることのできると言うほんの少しの安心感。無表情ながら不思議な感じ包まれながらの帰郷でした。

 

トラックの中では止まらない発作に悶え苦しむ訳ですが…

 

 

※この時に感じたことの回想録を小説として来年全国出版される予定です。ここで本当の苦しかった想いを包み隠さず書いていますので、1年後に改めて小説を読んで戴けましたら幸いです。

 

 

早春の釧路湿原

 

2月1日。釧路湿原側の実家に帰ってきました。

 

最初の1カ月間は相変わらず悪夢にうなされ身体は痙攣。極寒にあるにも関わらず全身からは大量の寝汗。食事も極度の吐き気で一切受け付けません。

 

病院からは「エンシュアリキッド」と言う流動食のようなものを処方してもらうのですが、これさえも喉を通りません。

 

何より「俺の人生は終わったんだ。」と強く思っていましたから。死ねませんでしたが、何度も死のうと考えました。

 

 

そんな絶望の毎日を送る中、専門学校からお手紙が届きました。

 

簡単にその内容を書きますと、「松本君が学校を辞めたことは本当に残念です。ただ、講師陣は松本君の絵に対する熱い想いを皆知っています。学校は辞めても松本君にその気があるのであれば、これからも絵の指導をしますし努力してプロを目指してください。」

 

確か、このような内容だったと記憶しています。

 

これには冷めきった身体に涙が再び溢れる程の熱いものを感じました。

 

「もしかしたら、まだ可能性があるのかもしれない…」

 

 

そう思い、ボロボロな身体を引きずりながら再び真剣に漫画を描き、ほぼ同時に絵画も描き始めました。

 

痙攣する身体を抑えながら描く一枚一枚の絵は想像を絶するものでした。ただそれにすがるしかありませんでした。今までだって十分に真剣に描いてきましたが、今まで以上に真剣に描きました。

 

専門学校を退学してからは1円たりとも授業料を払っていないのにも関わらず、特に仲良くしてくださった先生を中心に講師の方達が私の絵をメールやお手紙で指導してくださいました。

 

そして、少しずつ色々な方の目に留まり、2004年10月13日に初めて絵の売買が成立しプロとしての活動が始まったのです。

 

初めて売買した作品はタイトルこそありませんが、「海の絵」と「花の絵」の水彩画でした。

 

 

他の同級生たちが2年生として学校へ通っている中、学校を辞めた私が誰よりも早くプロになることができたと言う、誰も予想の出来ない展開でした。

 

勿論、ここからが本当の意味でのスタートであり、信じられないような困難が次々に襲ってきます。

 

不器用な私は上手く困難をかわすことは出来なかったので、一つ一つを全身で受け止めながら一歩一歩前進してきました。

 

そして来年が画業15年目の節目となります。

 

今までのありったけの想いを籠めて、15年を記念した画集を出版したいと決意しております。

 

目標金額にはまだまだ足りない状態にあります。何としてでも目標を達成したいです!

 

皆様の暖かいご支援。心よりお願い致します。

 

 

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