なぜ?

 

なぜ、このクラウドファンディングまで申し込みをして、この計画を続けようとしているのでしょうか。
実はよく自分でも分かりません。
でもひとつだけ感じていることがあります。
それはコミュニケーションです。
でもいった、そもそもコミュニケーションとは一体何なのでしょうか。

私はずっと彫刻を作り続けています。美術を自分のコミュニケーションの手立てとして考え続けているということでもあるのだと思います。
それなのになぜ?こんな事をしようとしているのか、自分でもよく考えるのですが実は答えは「よく分からない」です。

私は彫刻家であると学生の頃からそう考えて来ました。でも、その彫刻とは一体何なのかも分かりません。40年以上やってきても分かりません。分からないどころかますます謎だらけです。
多分分からないからやるのでしょう。だけど、皆目分からないということでもありません。

自分がやっている美術に対してもそのように分からないことだらけですが、それなのになおこうして街の中に作品の写真を展示し、冊子にして発行するということは、ますます分からないことを増やしこそすれ、きちんと自分の本来の仕事を混乱させるだけのことではないかと、自分でも感じます。

作品という物はもしかして、コミュニケーションのためのイメージであるのではないだろうか、というのが今の私のそれこそ「イメージ」なのです。
私たちは日々の生活の中でさまざまな「イメージ」を消化しながら暮らしています。
その「イメージ」を交換しながら生活をしているのです。その「イメージ交換」がコミュニケーションだということは、あたりまえすぎるくらい、当然なことです。
でもその「イメージ」や「コミュニケーション」ということがどのようなことなのかは詳しく考えようとすると全くもって分かりません。

ただ、日常の暮らしの中で私たちはイメージをやりとりして暮らしているということも言えると思います。
そのイメージという物があまりにも漠然としているので、それについてあまり深く考えることもありませんが、美術という物もそのイメージを橋渡しにしてコミュニケーションをしているのだろうと思うのです。
日々の生活の中でわき上がるイメージどのように伝えるかが暮らしの中でどのくらい大きな位置を占めているかを考えるとほとんど一日中イメージにどっぷり浸かって暮らしていると思うくらいです。
つまり私たちの生活もまた、イメージ抜きでは考えることが出来ないのではないでしょうか。
そういう中で美術や芸術と呼ばれるものは、そのイメージを裸にする役割を持っているのではないでしょうか。
日常の中で囲まれている物事のイメージの中で裸のイメージが時々ピリオードのように、人を立ち止まらせるのではないでしょうか。
日常の中では句読点となるイメージが必要だし、裸のイメージには日常を無視しては成り立たないのだと思います。

そうしたイメージという物が私たちの生活の中でどのように働いているのかを考えるためにも、この「マチてくギャラリー」は日常と美術の接点になり、その小冊子は面積を拡げるための「イメージ」なのです。

この計画にご協力をいただいた方にお礼として提供させていただく私の作品が、どのような背景で産み出されてきているのか写真でもすこししょうかいさせていただきます。

 

湘南台画廊

これらの作品は私の作ってきた物の本の一部でしかありませんが、こうした作品を通じて、「イメージ」の働きを考え続けて来た足跡のような物です。

そして、日常こそが生活であり、一番大事にするべき時間ではないかと思いを確認するための作品でもあります。

そのような作品のまたほんの一部分のかけらのような物でしかありませんが、そのような想いを込めた欠片のような作品ではありますが、ご協力いただいた方々に提供をさせていただこうと考えています。

 

 

 

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