プロジェクト概要

残る最後の1両

解体の危機が迫る、ニセコエクスプレス

 

スピード感あふれる、運転席のガラスフォルム。

 

函館本線山線の、急勾配・急カーブに対応するための低い車体。

 

着雪防止や気密性のため、JR各社に先駆けて採用されたプラグドア。

 

戦後、北海道内のJR(国鉄)工場で初めて新規製造されたリゾート車両は、2017年11月にラストランを終え、引退した後に解体作業が始まりました。

 

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キハ183-5001号を先頭に走る「ニセコエクスプレス」

 

今では全3両あったうち2両は解体済み。残る1両も、2019年4月以降に解体が予定されています。

 

しかし、今回のプロジェクトが成功すれば、北海道で生まれ育ち、活躍したこの列車を、ニセコ町へと里帰りさせてあげられるかもしれないのです。

 

ニセコ町の観光振興に約30年にわたって貢献し、北海道の鉄道史にもその足跡を刻むニセコエクスプレス。その歴史の語り部として、後世へと継承していくために、皆様のご協力を頂けないでしょうか。

 

 

昭和63年

ニセコエリアの期待を一身に背負い生まれた、道産子列車

 

ニセコエクスプレスは、昭和63(1988)年に、千歳空港を含む札幌圏域からニセコ地域へのスキー輸送を担う3両編成リゾート列車として製造された、唯一無二の車両です。

 

以降、29年間にわたり、冬季はニセコ地域、夏季は全道各地を走行し、ニセコ町をはじめ北海道の観光振興に貢献してきました。

 

然別駅を発車し、山線きっての難所・稲穂峠に挑むニセコエクスプレス
2002年3月17日(小樽市総合博物館・星コレクションより)

 

昭和61(1986)年、函館本線「山線」(小樽・長万部間)から、特急・急行列車が姿を消し、ローカル線に転落しました。かつては、樺太や本州連絡の急行が行き交い、人々や物資を運び、北海道の発展に寄与した山線から、優等列車が姿を消したのです。

 

この停滞ムードを吹き飛ばしたのが、ニセコエクスプレスのデビューでした。道内で新規製造された車両ということもあり、町民の期待や観光業者などニセコ地域からの期待を一身に背負ってのデビューでした。

 

デビュー翌日、千歳空港(現・南千歳)駅停車中のニセコエクスプレス
1988年12月18日(小樽市総合博物館・星コレクションより)

 

「函館本線山線」を走るため、生まれてきた車両

 

同車の生まれ故郷は、戦前から道内の列車製造を支えていた、JR北海道苗穂工場。同工場では戦前、1938年から1941年までD51型蒸気機関車を製造して以降、車両の新規製造は行われていませんでした。

 

1980年代からリゾート列車が誕生する中で、改造車ではなく、文字通り0からの新製車両として、ニセコエクスプレスは産声を上げました。

 

同車の車内は、ニセコ地域の気分が味わえるように、リゾート地の落ち着きをイメージして設計されました。外観は当時、札幌と千歳空港間で建設が構想されていたリニアモーターカーを模したともいわれる、スピード感あふれる見た目。正面には1枚100kgの大型ガラスがあり、当時、世界最大の熱線入りガラスでした。

 

また、JR北海道の他のリゾート列車と見比べると、同車だけ車体の高さが低くなっています。これは、急勾配・急カーブが続く函館本線山線での乗り心地を考慮したもの。加えて、着雪防止や気密性のためにJR各社に先駆けてプラグドアが採用されました。まさに、山線の厳しい自然環境に対応するために生まれてきた車両なのです。

 

白の車体に映える赤色のプラグドアとエンブレム
1988年12月18日(小樽市総合博物館・星コレクションより)

 

また、雪によって冬場の移動に悩ませるニセコ町民にとっては、安心・安全に、なおかつ定刻通りに、約1時間半程度で札幌まで行くことができる「日常の交通手段」として愛されていました。

 

冬季以外は、北海道各地の臨時列車などで大活躍し、夏季はニセコを不在にする。そんな様子を見て、「ニセコエクスプレスは夏だから出稼ぎに行っている。また冬には戻ってくるっしょ」と口にする町民もいました。

 

同車が活躍したリゾートブームの頃に活躍した多くのリゾート列車は、バルブ崩壊と共に解体の運命を辿りました。「ニセコ」という、単一の自治体名を冠したこのリゾート列車を保存することは、山線の厳しい自然環境や線形、歴史だけでなく日本のリゾート開発史を同時に後世へと伝える「鉄道遺産」であり、貴重な「郷土資料」なのです。

 

羊蹄山を背景にニセコ駅を発車するニセコエクスプレス
同車右側には修復前の旧新得機関区転車台もみえる(2014年)

 

このままでは、今年中に本当のお別れがやってきます

 

約30年にわたり山線をはじめ、北海道各地で活躍しましたが、オーダーメイドの唯一無二の車両であるがゆえに保守部品の確保が難しく、2017年11月4日に引退の時を迎えました。

 

同車は、町内のリゾート施設や役場なども協力して製作されたこともあり、当時の関係者や多くの町民からは大変残念だという声が多くあがりました。

 

こうした深い関わりから、ラストランの際には多くの町民が最後の雄姿を見ようとニセコ駅に集まり、最後の旅に出る姿が見えなくなるまで旗を振って見送っていました。

 

引退から約1年後の昨年10月、3両編成のうち先頭車1両(キハ183-5002号)と、中間車1両(キハ182-5001号)が解体。

 

残る最後の1両(キハ183-5001号)は、JR北海道苗穂工場にて留置されていますが、2019年4月月以降に解体が予定されています。

 

ニセコ駅で最後の出発を待つニセコエクスプレス(ニセコ町役場提供)

 

豪雪地帯 ニセコ町での保存にむけて

 

ニセコエクスプレスの保存に向けて、町をあげて協議・実行していくために、昨年ニセコ町鉄道文化協会を立ち上げました。購入後の管理については、ニセコ町唯一の博物館施設である「有島記念館」(所管:ニセコ町教育委員会)が担います。

 

保存場所としては、ニセコ町駅隣接地にある「旧新得機関区転車台」付近を考えていますが、道内有数の豪雪地帯であるため、本来は鉄道車両の屋外保存には向かない土地です。しかも、同車の特徴的な前頭部ガラスは、53度の緩やかな傾斜となっているため、破損を防ぐため車庫が必要となります。

 

車両の購入・輸送に加えて、1両分の車庫の建設となると非常に高額な費用が必要になってしまいます。そのため、一部分も残らず解体されてしまうことを避けるため、各所と協議の上、第一目標として、先頭部分を切断した上での保存を決めました。

 

 

予定地①:旧新得機関区転車台

 

平成2年の「C62ニセコ号」のニセコ駅延伸(平成7年運行休止)に伴い、新得町から同駅隣接地移設されたものです。この転車台は、長年荒廃していたものの、2014年には手動による可動化に成功。

 

2017年には、井門義博さんなどのご尽力により蒸気機関車「9643」が移設されています。また、同所は殖民軌道真狩線の狩太(かりぶと:ニセコ町の旧称)駅のあった場所であり、同車をここで保存することで鉄道遺産のさらなる集積地となります。

 

ニセコ駅隣接地にある「旧新得機関区転車台」
蒸気機関車「9643」と転車台(後方)

 

予定地②:有島記念館

 

第一目標を越えて、第二目標までご支援を頂けた場合には、1両保存が可能となります。その場合は、車庫の建設費用が不足するため、緊急避難地として「有島記念館」内にて保存いたします。

 

同地で保存する場合、職員が常駐していることから、車体に降り積もる雪をよける最低限の作業ができるためです。

 

左側の雪が積もっている地点が保存候補地。背後には羊蹄山を望むことができます。
1月中旬ですでに1m近くの雪が「9643」に積もってしまいました

 

なお、昨年10月に解体された2両の車内外の部品の一部は、今後の保存を末永く行うための保守部品として、JR北海道からニセコ町役場に譲渡していただきました。

 

同車の保存活動を通して、降雪地における適切な鉄道車両の保存方法も模索していきたいと考えています。

 

ニセコ町での今後の保存を考えて確保されている保守用部品の一部

 

今回のプロジェクトにより、里帰りが実現した暁には、鉄道遺産としてはもちろん、博物館資料として保存し、同車はもとより、同車が活躍した山線の100年以上にも渡る歴史の語り部として、皆さまからの想いと共に、次世代へと継承してくれると信じています。

 

どうか、皆さまからの暖かいご賛同・ご支援を、よろしくお願いいたします。

 

 

ニセコエクスプレス 保存への想い

 

いつ頃から「山線」と呼ばれるようになったのでしょうか。私が初めて北海道の地にカメラ行脚した昭和41年当時。正しくは、支線もありましたが函館本線(函館~旭川)でした。

 

国鉄からJR化された現在も変わっておりません。国鉄動力車の近代化における蒸気機関車の廃止で渡道していた大型蒸気機関車のC62も、倶知安名物二つ目9600も廃止間近で、多くの鉄道写真趣味人が足を運んだ頃から「山線」(長万部~小樽)と呼ばれるようになったのではないでしょうか。しかし(函館~長万部)を「海線」とは殆ど聞きません。さすが、急行「大雪」「あかしや」「まりも」には間に合わなかったが、「ていね」「ニセコ」には、足繁く通いました。

 

1971年9月15日以降、山線ではキハ22・52・54・56、82・183特急「北海」、DD51・キハ201・そして道産子のキハ183-5000「ニセコエクスプレス」などは元気な時代でもあり、C623号機による復活運転もありました。

 

狩太駅はニセコ駅に変わり、上目名駅・蕨岱駅は消えてしまいました。内地と北海道の物流などを現時点で考察すれば、「山線」は、残存させねばいけませんね。

 

そして、そこを駆け抜けた「ニセコエクスプレス」はニセコ町に残って欲しいと願います。

荒川 好夫(写真家)

 

ニセコ町は、豊かな自然環境にはぐくまれた四季折々の魅力で人々を惹きつける地です。冬季は良質のパウダースノーが世界からのスキーヤーを引き寄せています。そのほか春からはラフティング、秀峰・羊蹄山やニセコ連山などの登山などアウトドアも通年を通して楽しむことができます。また、秋の紅葉、旅の疲れをいやす温泉など、この地の魅力を語るには枚挙にいとまがありません。そのニセコ町の魅力に「ニセコエクスプレス」を加えたいのです。

 

小説家・有島武郎はこのニセコの地に「相互扶助」の思想を遺しています。この思想はニセコ町の街づくりの基本理念として現在もこの地に息づいています。ぜひ今こそ、みなさまの「相互扶助」の精神で、ニセコエクスプレスをニセコへと里帰りさせてください。ご協力をお願いいたします。

片山 健也(ニセコ町長)

 

子どもの頃、機関士にあこがれていた副町長の林です。今は「乗り鉄」として全国各地に出没しています。ニセコ町には「9643」、「旧新得機関区転車台」、「旧殖民軌道真狩線」などの鉄道遺産があります。そこにニセコ町の観光振興に大きな貢献したニセコエクスプレスの保存にぜひお力を貸してください。

 

そしてニセコエクスプレスの里帰りの暁には、季節ごとに様々な車窓を楽しめる山線を利用して、ニセコ町の鉄道遺産を見にきてください!

林 知己(ニセコ町鉄道文化協会会長・ニセコ町副町長)

 

資金使途について

 

ニセコエクスプレスは、このクラウドファンディングが成立しないと、1両残らず全て解体され、2度と目にすることができなくなってしまいます。

 

しかし、1両全てを購入・輸送・保存および保存場所の整備となると、非常に多額な費用がかかってきます。

 

そこで、車体の一部だけでも購入・保存して将来へと継承していくため、キハ183-5001号の先頭部分7mを切断の上、里帰りさせることを本プロジェクトの第一目標とさせていただきます。

 

もちろん、ニセコ町で同車の帰りを待つ身として、1両全ての保存が目標です。もし第一目標を達成できた場合は、1両保存という第二目標を掲げさせていただければと考えております。

 

第一目標

先頭部分7mを切断して里帰りさせます。この場合、車体強度が落ちてしまうので、降雪等で前面の大型ガラスが破損する可能性があります。それを防ぐため、同時に車庫を建設した上で、旧新得機関区転車台付近に「9643」と共に保存します。

※第一目標の場合、以下の写真の「Niseko EXPRESS」の「R」あたりで切断の上、保存予定です。

 

-資金使途-

車体購入費の一部+輸送費・路盤整備費の一部+車庫建設費の一部=650万円

返礼品費用+Readyfor手数料=210万円

合計:860万円
 

傾斜角度53度の先頭部ガラス 新千歳空港(現・南千歳)駅1988年12月18日
(小樽市総合博物館・星コレクション)

 

第二目標

1両(キハ183-5001号)全てを里帰りさせます。この場合、車体強度が大きく落ちることはなく、また1両分の車庫建設にはより多くの費用がかかってしまうことから、冬季の管理を考慮して有島記念館敷地内での保存となります。

 

-資金使途-

車体購入費の一部+輸送費・路盤整備費の一部=700万円

返礼品費用+Readyfor手数料=250万円

合計:950万円

※もし第二目標以上のご支援を頂戴した場合、権利関係の調整ができれば、新製時に側面に装着していたエンブレム復元費用とさせていただく予定です。

 

※目標金額を超過して頂戴したご支援については、塗装費用や維持管理経費に充てさせていただきます。塗装については、生まれ故郷である苗穂工場で実施したいと考えております。鉄道車両の塗装や標記は、一般の塗装会社ではできないものです。そのため、現状の塗装を将来に残すことも博物館活動の一つであると考えます。生まれた工場で最後にお色直しをさせ、きれいな姿で里帰りをさせたいです。

 


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