俳優たちは、台本を片手に「語り手」という役割を演じます。しかしそれは多くの人がイメージするであろう、いわゆる「朗読」とは少し違うことでしょう。私たちはそれを「物語り」と呼んでいます。何がどう違うのかを文章だけで説明することは難しいですが、乱暴に言うなら、文学作品を声に出して朗らかに読み聞かせるのではなく、物語の世界を伝えるために臨場感を添えて語りかけるということです。
 

本を読むことはとても大事です。知らないことを知り、文字を覚え、文章力も養われます。想像力も鍛えられますし、読解力がつけば表現力も広がるでしょう。だからたくさん本を読もうと誰もが言います。しかし残念ながら、想像力に乏しいうちや読解力に欠けるうちにいくら本を読んでも、そこから得られる効果はあまり期待できません。想像力や読解力を鍛えるために読んでいるのに、それらが乏しいせいで、書かれている内容の半分も理解できないまま、読み進めてしまうからです。
 

そんな時は、ぜひ声に出して読んでみてください。新たな発見があると思います。実は、本は黙読するより声に出して読んだ方が、書かれていることの意味を理解しやすいのです。ところが、声に出して読んでみても、自分の思い込みや先入観が強ければ、面白さに気づけません。だから、誰かに読んでもらうのです。子供の頃のことを思い出してください。自分で読む前に誰かに読んでもらっていたはずです。
 

つまり、目の前で語り手がありありと語る「物語り」を聴くことが、物語の内容を多角的に捉え、本質的な魅力に気づける最良の方法だと思うのです。(無論、語り手の力量に左右されてしまうことは言うまでもありませんが…。)
 

ちなみに、新見南吉が、当時の文芸作品の質の低下について言及している「童話における物語性の喪失」と題された文章の中で、口に出して読まれる物語りの重要性について述べています。そちらの抜粋をご紹介します。

 

「紙で読んで面白くない童話は口から聞かされても面白くない。口から聞かされてつまらない童話は紙で読んでもつまらなくないはずがない。このことは童話ばかりではなく、大人の小説についてもいえると思う。小説が口から離れて紙に移ったところから小説の堕落がはじまるのである。
 それが嘘だというなら、例えば西鶴やトルストイや宇野浩二などのすぐれた小説を読んで見るとよろしい。そこにはあなた方は作家の手からでなく、作家の口から出て来る息吹きのこもった言葉をきくであろう。
 童話はもと、それが文学などという立派な名前で呼ばれなかった時分、話であった、物語りであった。文学になってからも物語りであることをやめなかった(アンデルゼンやソログーブのことを憶い出して下さい)。

(中略)

 ここで憶い出して頂きたい、フランクリンが友人数名とクラブを作り各自が書いてきた原稿(童話ではなかったが)を作者が読み他の者が聞き、批判しあったことを。またディケンズが彼の長い小説の一章ずつを友人たちに聞いてもらったことを。『詩と真実』によればゲーテもまた作品を読み聞かせる習慣を尊んだようである。
 これらのすぐれた文士たちは、こうして、文体の簡潔、明快、生新さ、内容の面白さを失わぬように努めた。これは昔風な馬鹿正直なやり方のように見える。
 しかし、今日、童話が物語性を再び身につけるには、少しでも話の内容なり文章なりが退屈になればすぐ聴手がごそごそしはじめるので全然作家のひとりよがりを許さない、この厳しい方法が最もよいと思う。」

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