太陽の家の創設者故中村裕博士が学会等での講演記録の中から印象的な言葉を紹介いたします。


中村語録:1
身障者の移動動作に我々はすぐにいろいろなメカを考えますが、東南アジアの家は2メートルくらい地面より高く造られたバンガロー風のものが多く、階段があります。下に降りたい時には口笛を吹くと近くの人達が抱えて降ろしてくれます。また、必要な食物は近くの人が持ってきてくれます。すぐリフトや車いす、ケースワーカーなどを考える私は、この時、リハビリテーションの基本は隣人愛・ヒューマニズムであるのではないかと考えさせられました。
                 (1977年2月25日 SICニュースより)

「写真:1977年12月にオープンした、日本で初めて障がい者が働くスーパーマーケット「サンストア」で買い物する中村裕博士」

 

中村語録:2
ハンディキャップというものは世の中が作るのであって、何も身体障害者自身が作るものではない。弱者が作るものではない。世の中が本当に彼らを受け入れるような態勢、なんとか言うけれども身障者はだめだとか、うちの子どもはあそことは遊ばせたら行けないという偏見、そういう偏見とか社会の仕組みさえなければハンディキャップではないわけです。

(1979年7月26日 これからの福祉と教育 県小中学校校長会 講演より) 

「写真:1979年7月 仕事終えて、休憩時間にゆっくりとくつろぐ利用者」

 

中村語録:3
従来のパラリンピックは先進国中心のお金のある人だけが参加できるような仕組みになっていまして、しかも車イスだけのスポーツという傾向が強かった。そこで発展途上国からも、そして車イスに乗れない人や、目の不自由な人もすべての障害者がやってきて競技をやろうというのが大会の趣旨だったのです。競技上の成績はまったく度外視して、スポーツに参加することがフェスピックのポイントなのです。
         (1975年7月 明日に向かって語ろう、西日本新聞掲載)

「写真:1975年 第1回フェスピック大会の開会式」

 

「フェスピック(FESPIC)とは、極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会を意味する英語名称、Far East and South Pacific Games for the Disabled の頭文字をとったものである。1975年から2006年までの間に9大会が開催された。欧米に比べて障害者アスリートの競技機会が限られていたアジア・太平洋地域において、中心的な国際総合競技大会として機能し、アジアパラ競技大会の先駆となった。」

 

(中村語録:4,5,6は10月に掲載する予定です。)

 

 

 

 

 

 


 

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