御師の家・梅谷プロジェクト終了のお知らせ。有難うございました
ご支援をいただきました皆々様へ
この度は、御師の家・梅谷の屋根修復プロジェクトにご賛同いただきご支援を賜りましたこと、心よりお礼申し上げます。
人との出会いから、我が家の歴史を調べたり、人に聞いたりしながら江戸時代にご先祖がやってきたことに興味を持ち、できれば長く残せるものは後世につないで行きたいとの思いで、このプロジェクトもスタートいたしました。
実は、私は父とは御師のことやご先祖のことは、あまり話したことがありませんでした。というのは、私が幼いころ我が家は武田家24将の一人で本庄美作守がご先祖だと父から聞いていました。小学5・6年生のころ学校で友達にうちのご先祖は武田の大将の一人だったと話したところ、歴史をよく知っている友達がいて、そんな人いないと言われ、大変恥をかいたことがありました。それ以来、田舎のことは興味もなく父に先祖のことなど話すこともありませんでした。
御師とか先祖のことに興味を持ったのは、十数年前、こちらに戻ってきてからのことです。そのモチベーションになったのは2つの出来事からでした。ひとつは、戻って来て何年か経ってのこと、村の人がお宅は本家じゃなくて分家だよ、と言われました。ちょうどそのころは、母屋には叔母が住んでいたので、もう一軒の本庄ってどこにあるの?お墓はどこにあるの?叔母や親戚に聞いてもお墓は何処だか分からないし、親戚でもないとのことでした。そこで、お墓を捜し歩き見つけることができました。江戸時代中期ごろからのお墓でした。名前に「菅原」という文字も刻んでありました。古くは我が家の先祖の墓や古文書などにも「菅原」と書かれていますので、きっと先祖は同じと分かりました。その時は、どちらが本家で分家かは分かりませんでした。(我が家の家紋は、梅鉢です。)
もうひとつの出来事は、村の親戚の人から、「御師」ってなんだか知っているか?と言われました。あまり分からないと答えると、「御師は宿屋の主人のことだ」と。え?我が家は1000年も続く家系で、苗字・帯刀も許された名家?みたいなことを父や伯母に言われていたのに?祖先のことにあまり興味を持っていなかった自分もちょっとがっかりもしました。そこで、御師って何なの?我が家の歴史は何なの?自分で調べて見るきっかけになったのです。
父が生きていた当時、学習院大学の先生たちが河口の御師を調べた資料がありました。また父が調べた資料なども残っていました。けっこう勉強していたのを知りました。母屋の2階を調べたら古文書や白川神道の本なども多く出てきました。調べた資料を基に、母屋に展示場を作りました。そこから人との出会いが始まり、ヲシテ文字(神代文字)で書かれた『ミカサ フミ』の写本が見つかったり、神主の資格を取ったり、宿屋業(御師)を始めたり、今日に至っています。
今思いますと、初めのモチベーションがなかったら、我が家のことを考えることは無かったかもしれません。また、残念なのはもっと早くに父や祖父に我が家のことを聞いておけば良かった、と後悔が残ります。もう聞く人がいません。
我が家も、4人の子供がいます。息子2人と娘2人。たぶん子供たちの中に田舎の家を継ぐ子はいないでしょう。私の代で終わりだと思っています。ですので、町の文化財にもしていただきました。後は、なんとか県の指定を受けたいことと、母屋をできるだけ存続できるように修繕をしておくこと、子供たちに我が家の歴史を伝えておくこと、それが私の役目かと思っています。今回、屋根の修繕により30~50年は大丈夫でしょう。後は、何とか土台を直したいと言うのが夢です。
だいぶ話が長くなりましたが、何とかハードの部分の建物とソフトの部分の古文書・資料などを整理し、後世に残して行きたいと思っております。これからも皆様方に見守っていただければ幸いに存じます。
この度は、本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
御師の家 梅谷
本庄元直