皆さんこんにちは。NPO法人「W・I・N・G―路をはこぶ」スタッフの田代です。

直接ご支援を賜った皆様には既にメッセージにてお礼を伝えさせていただきましたが、おかげさまをもちまして、プロジェクトが無事に成立致しました!!


本当に、本当にありがとうございました!!


資金の調達ができたことで、制作活動はこれから本格化していきます。制作や展示会についての進捗状況も随時こちらで発信させていただきますので、作品の完成~展示会の開催まで、引き続きの応援、どうぞ宜しくお願い申し上げます!!


この「新着情報」の一番最初の投稿「展示会のタイトルについて」で、今回の制作に向けた上野さん・横溝さんの想い(の一端?)が展示会のタイトルとそのキャプションに表現されていることに触れました。


「あることについて」

わたしの身体を信じる
わたしの想いを信じる
わたしとつながる誰かのことを信じる
わたしがわたしであることを信じる


私は、何かを本当に「信じる」ためには、その前段階として「抗う」ことが必要ではないかと思っています。

目の前にある石ころの「重さ」を信じるためには、地球の引力に抗ってその石を持ち上げてみなければなりません。

川の流れの「速さ」を信じるためには、川の中に浸かって流れに抗って逆行してみなければなりません。

わたしの身体がわたしのものであること、わたしの想いがわたしのものであること、わたしとつながる誰かが確かにいること、わたしが確かにわたし自身であることーーそれらを信じるためには、「そんなの当たり前じゃん」という感覚に抗う必要があると思うのです。

「当たり前」が世の中にたくさんあればあるほど、いろんな物事が実にスムーズです。「当たり前」だから、立ち止まって考える・振り返る・疑う必要がありません。そして、ビジネスや人命救助など、「スムーズであること」自体に価値があることもたくさんあります。

ただ、ここで気を付けたいのは、「当たり前」=「疑いの余地がない」であったとしても、「疑いの余地がない」=「信じる」ではないんじゃないの?という点です。

「当たり前」=「疑いの余地がない」というのは、いわば「脊髄反射」みたいなものです。そこには大脳が司る「意思」や「意図」などが全く介在しません。意思や意図が介在する「隙間」がないからこそ、流れが断ち切られることも、途中で堰き止められることもない「スムーズ」さが実現するわけですね。

それに対して、「信じる」というのは明らかな「意思や意図」によって発動する行為です。「よし、信じよう」「よし、受け入れよう」と決意して初めて「門を開け放つ」ことです。

「当たり前」=「疑いの余地がない」は、そもそも「門」が無い状態を表しています。じゃあ「門」があるのと無いのとで何が違うの?「疑いの余地が無い」のと「信じる」のとで何が違うの?

それは「門」によって堰き止められていたものの「重み」ではないでしょうか?「門」によって流れを堰き止めておけばおくほど、堰き止められたものの水嵩=「重さ」は増していきます。そしていざ「門を開けたときの勢い」たるや…。

「当たり前」のもの/こととして受け入れているもの/こと。「信じる」と決めて初めて受け入れるもの/こと。

この両者の違いを端的に表している日本語が「ありがとう」ではないかと思うのです。何しろ「有り難い」=「当たり前じゃない」わけですから。

わざわざ「門をこしらえる」=「抗う」ことで堰き止めていたからこそ、「門を開けた」=「信じて受け入れた」時の「ありがたさ」が強く実感できる。信じるためには抗わなければならず、抗わなければ本当の感謝の気持ちは味わえない。

「在ること」や「或ること」に対する「ありがたさ」を全身全霊で感じ取るために、きちんと抗う。そして、きちんと信じる。今回の制作の過程も、そして出来上がった作品も、そういう丁寧な生き方、戦い方を表現できるものになったらいいな…。

プロジェクトの成立を受けて、もう一度作品制作や展示会の原点に立ち返ってみたのでした。



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