前回は幼少期に来日したお子さんの現状をお伝えしましたが、今回は、10代に入ってから・・・特に現場で出会うことが多い14才前後に来日した子どもたちのストーリーを、いくつかの事例をもとに再構成してお送りします。

 

現場では来日後積極的な支援がなく「放置」された結果、母語も日本語もほとんどまともに話すことができなくなってしまった子どもとの出会いは、1人や2人ではありません。

 

一日も早く支援を届けなければ、と願うのは、子どもたちの言葉の発達の健全度がその後の人生を大きく変えてしまう可能性を強く感じているからでもあります。

 

*この記事は、私の個人ブログに過去掲載したものを、加筆修正しています。

 

思春期の子ども達にとって、同じ境遇にある仲間との出会いは大きな支えに

 

<来日直後>

 

10代に入って来日した子どもの半数以上が「呼び寄せ」と呼ばれる子どもたちです。「呼び寄せ」とは、実親がその子どもを親戚などに預けて先に来日し、経済的な基盤が整った後、あるいは子どもの母国での教育の節目(小学校卒業時、など)やビザが取れた時点などに日本へ呼び寄せ、共に暮らし始めることです。

 

14,5才での来日ケースでは比較的、実両親はすでに離婚しており、(主に)外国人の母親が日本人男性と再婚した後に、出身国に置いてきた子どもを日本へ来させる場合が多くありました。

 

それまで何年も離れて暮らしていた母親と、日本人の義理の”父”(養子縁組する、しないなどは個々の家庭により異なります。)との暮らしのスタートです。時には母と新しい父の間に、小さな父親の異なる兄弟がいる場合もあります。家庭の中は久しぶりに共に暮らせるようになった母親が、日本語でしか自分以外の家族と会話をしないことに気づきます。

 

こうした呼び寄せの子ども達の新しい父親となる日本人男性は、その子どもの母語も、英語も話せないという方が多数で、家庭内では母親も一つ一つの言葉を子どもに訳すことは難しいため、家庭内でも会話についていけない、ということも。

 

(逆に、母親と呼び寄せた子どもが母語で会話していると、その会話がわからない日本人男性がどことなく疎外感を感じることもありえます)

 

 

<就学時>

 

日本人男性がメンバーとして加わっている家庭の場合、呼び寄せられた子どもの教育に関する決定や手続きなどは、母親の言葉の制約などもあり、日本人男性が行う場合も少なくありません。家庭内のパワーバランスや男性の考え方、あるいは男性が手続きに時間をさけるかどうか等の状況次第でここで、すぐに就学するとはいかないこともあります。

 

ようやく教育委員会の窓口に行ったときには、「日本語の支援は学校側ではいっさいできないので、日本語を勉強してから入るか、自分で通訳などのボランティアを探し、一緒に登校してもらってはどうか」と言われることがあったり、学校の長期休暇や試験などとの関係から、就学・転入が1ヶ月以上も先になる事もあります。

 

 

<来日後数週間~数ヵ月>

 

学校側は、受け入れの際にはその学校内で可能な限りの配慮をするケースが多く、英語教員のクラスに入れたり、比較的英語が得意な生徒などを「お世話役」として任命してくれたり、時には担任の先生が放課後にボランティアでひらがななどの読み書きを教えてくれることもあります。

 

本人が英語が得意であれば、カタコトの英語でのコミュニケーションを求めて、しばらくの間は入れ代わり立ち代わり、クラスメートが近くにやってきます。子ども自身の性格やコンディションによっても異なりますが、周囲の動きについていけるようになるまではさほど時間はかかりません。

 

 

<転入数か月後~>

 

次第に、お世話役だった生徒にも周囲の生徒にも、外国にルーツを持つ子どもの存在は目新しいものではなくなっていきますが、その、目新しさの消失の速さと本人の日本語の上達のスピードがある程度一致していれば、この第1の壁を超えることが可能です。

 

しかし、ほとんどの場合、周囲の生徒が本人に対して興味関心を失う速度のほうが圧倒的に早く、その差が開けば開くほど、外国にルーツを持つ子どもの存在は「重荷」になりやすいといえます。

 

授業時間には、何が行われているかまったく理解できず、親が買い与えてくれたひらがなとカタカナの練習帳を、もくもくと進めるだけ。それが終わると、1人ではどうやって日本語を勉強してよいのかわからず、ただただ時間が過ぎるのを待つ状態に。

 

このような状況が続けば、当然ながら学校に対する苦手意識が芽生えます。また、自らの考えや思いを伝えることができないもどかしさが、ストレスとなるだけでなく、本人から自尊心や前向きな気持ちを奪っていきます。

 

 

<言葉がわからない間は”赤ちゃん”になったような気持ちにも>

 

私が16才でフィリピンのハイスクールに単身で留学したとき、まわりのクラスメートや先生方が本当にやさしく、ずっとつきっきりで言葉の通じない私をサポートしてくれたのですが、主に「ジェスチャー」がコミュニケーションの手段であったころは、言葉のわからない自分がまるで“赤ちゃん”になったかのような気分になることあり、時々落ち込みました。

 

本当はこう思っているのに、こう感じているのに、これだけ「大人」なのに、何一つ伝えることができない。自分ひとりで行動できる範囲も、言葉がわからず制約があり、その「不自由さ」と自分に対する無力感に襲われた時期もありました。

 

10代で日本にやってきた思春期の子ども達にとって、言葉がわからない間の「赤ん坊のような無力感」は、大きなストレスになり得、場合によっては自尊心をも削り取られるような状況ではないかと、実体験を元に感じています。

 

 

<家庭の中で>

 

学校内で苦しい状況が続く外国にルーツを持つ子どもたちですが、家庭の中でも「(新しい)家族との生活」が心安らぐものとならない場合も。

 

日本人の継父は、はじめての「思春期」を迎えた子どもとの同居生活への戸惑いと、なかなか日本語が伸びない子どもに対して、どうしたら良いのかわからず苛立ちを感じることもあります。

 

さらに外国人の母親が、日本人男性が不機嫌にならないように気遣い、いつまでも日本語が上達しない子どもに厳しい態度を取ってしまうことで、子ども自身は2重、3重に追いこまれて行き非常に辛い思いをしていた子どももいました。

 

思春期の子どもにとって、こうした状況が続くことは大きな苦しみとなります。その苦しみの一つから逃れるように学校に足を運ぶことをやめてしまったり、同国出身者で同じような環境に置かれている外国にルーツを持つ仲間とつるんで、夜の街に出かけ、自宅からも足が遠のくように、ということも珍しくありません。

 

 

<その後>

 

気づいた時には、中学3年生の後半になり、日本人の生徒たちは高校入試を受けるためのいろいろな準備をすでに済ませていました。

 

母親は高校に行きなさい、といいますが、日本語の読み書きができない母親と自分だけでは、とうてい準備はできそうにありません。父親は仕事で忙しいこともあり、なかなか頼ることができません。

 

周りの仲間たちの中には、夜の高校に行っていた友人もいるけれど、だいたいが1年生が終わらないうちにやめてしまっていて、受験に関するようなことで手伝ってくれる友人はみあたりません。

 

相変わらず、日本語はカタコトしかできず、日本語ができる友人が近くにいないときは、ほとんど外にでていません。

 

学校と本人との心理的距離が縮まらず、家庭内でもフォローができない場合

こうした子どもたちは「進路未決定」として受験をすることもなく中学を卒業しなくてはなりません。

 

その後、再受験を目指して支援機関につながるケースもありますが、仲間内の「ショウカイ」で日雇いの仕事に就くこともあり、不安定な就労を果たします。

 

日本語の力が不足していることと、はじめて働いた場所が日本国内であり、特段のスキルも持っていないことで、就労後もキャリアのステップアップは難しく、紹介されたバイト先を転々とし続けることにも。

 

思春期という複雑な時期に、突然日本に呼び寄せられ学校での困難はもちろんのこと、ようやくともに暮らせると思っていた親との生活ですら日本語の壁が立ちはだかっています。

 

日本社会が自らの存在を歓迎してくれているようにも思えない。

学校、家庭、社会のどこにも居場所を見つけることができない状況も、珍しくはないのです。

 

<NICOで共に学びあえる「仲間」との出会いも>

 

このプロジェクト、「NICO|にほんご×子どもプロジェクト」では、ただ日本語教育機会を提供するだけでなく、ウェブ会議システムを使って東京の現場で学ぶ外国にルーツを持つ子ども達と、地方で孤独の中過ごしている子ども達とが出会う機会にもなります。

 

授業の合間の休み時間には、パソコンの画面を通して仲間と母語で会話を楽しんだり、授業中も教えあったりすることで、少しでも心の支えになり、日本での生活を前向きに楽しむ力になれば、と願っています。

*内容は複数の事例を再構成したものでフィクションです。

*写真は本文とは関係ありません。

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