プロジェクト概要

 沖縄戦で止った学びの時計を動かし始めたおばぁ達の想いを本に!

 

那覇市にある「学校NPO珊瑚舎スコーレ」スタッフの遠藤知子と申します。

沖縄戦の戦中、戦後の混乱と貧困のため義務教育を受けられなかった方が沖縄には大勢いらっしゃいます。そういう方々のために2004年、夜間中学校を開設しました。義務教育未修了の方の授業料は無料です。今年で丸10年が経ちました。その間生徒の皆さんへの聞き書きを続けています。人数は100名ほどになります。そのことばは学ぶこと、生きることの素晴らしさにあふれています。私たちに自らの人生を見つめる機会を作ってくれる力を持っています。また、証言としても大変貴重なものです。

 

1冊の本にまとめ、多くの方々に読んでいただきたいと思い、聞き書き集「まちかんてぃ!(仮称)」の出版を考えました。

 

(授業の様子)

 

(授業風景:サポーターが手伝います)

 

学ぶこと生きることの素晴らしさを多くの方に伝えたい!

 

沖縄が日本に併合されて150年近くが経ちます。その間、沖縄の人々は政治の波に翻弄されて来ました。とりわけ先の大戦で唯一地上戦が行われた沖縄は筆舌に尽くしがたい凄惨な状況に陥りました。その時代にちょうど学齢期を迎えていた子供たちの過酷な現実とそれを乗り越え、それぞれの生活を精一杯生き、60年以上経っても、なお学校で学ぶことを求める姿は「人間って素晴らしい!」を実感させてくれます。

 

(1年生の国語の授業の様子)

 

(1年生数学の発表の様子)

 

「まちかんてぃ!」(待ち兼ねていたよ)刊行プロジェクト開始!

 

珊瑚舎スコーレのスタッフと契約した編集者1名(未定)で来年早々に編集会議を開きます。その後、出版社(未定)と契約し、初版1000部を来年4月を目途に刊行します。書名の「まちかんてぃ!(仮称)」は2004年の第1期生が入学を祝う会の席で「いつか自分が通える学校ができると思い60年待ったよ。先生、『まちかんてぃ』してたよ。(待ち兼ねていたよ)」と笑顔いっぱいで話した生徒の言葉からもらいました。

 

(学習発表会 民謡発表の様子)

 

(3年生 自作の朗読発表の様子)

 

(1年生の作文)

 

「珊瑚舎スコーレ夜間中学校」は民間が運営する夜間中学校として全国で唯一中学校卒業資格を取得できる学校として認められました。活動のすべてをご紹介できませんが、ご参考のため時間割を掲載します。

 

 

 

聞き書きの一部を紹介します!

 

小学校1年の一学期だけ学校に通いました。みんなは洋服を着て、靴をはき、教科書、エンピツを持っていました。貧乏だった僕は裸足ですし、はいているズボンもボロボロに裂けてスカートのような状態です。ノートも画用紙のような紙を5~6枚綴じたものでした。教科書がないので隣の人をのぞくしかありません。そうすると先生に大声で「よそ見をするな!」と怒鳴られます。一番応えたのは爪の検査です。手を机の上に乗せていると先生が回ってきて、持っているムチで思いっきりぶちます。痛さよりその屈辱感がたまりません。親は子供のそんなことにかまっている余裕なんてない暮らしなのです。実は8才の時今でいう人身売買で糸満に売られました。21才までの年季で売られたのです。姉2人もそうでしたから、次は僕の番が来たんだと受けとめたような気がします。糸満では「いとまんうい」と言って子供を買い、漁師に育てるのです。ですから僕以外にも宮古の人とか子供はたくさんいました。素潜りをさせられます。魚や貝、なんでも捕ります。ボタンにする貝もたくさん捕りました。追い込み漁もします。海に出られない日は山に薪採りです。伸び盛りのころに重いものを持ちすぎて背も伸びませんし、両ひざを痛め今も辛い状態です。一番重かったのは網です。きつい労働でした。苦しかったです。中学校を出ていれば人生は180度変わったはずです。
 

20才ぐらいまでは自分の名前をひらがなで書けませんでした。その後、みようみまねで覚えました。夜間中学に入って良かったと思います。算数はできますが、役立つから基礎からやりたいのです。漢字は自分の努力で覚えるしかありません。書いて書いて、読み仮名はつけずに覚えるようにしています。6年生までに習う教育漢字は易しいようですが、まだ4~5つは書けないものがあります。自分にとって一番難しいのが発音、長音や促音がうまくできません。                       (2005年 O.W.さん 男性 談)

 

 


お昼のラジオを聴いていたら戦争で学校に行けなかった人の学校があると言っているんです。エンピツが間に合わなくて電話もわからん、学校の名前もわからん。その後もラジオを聴いていたけど、その1回しか放送しないわけ。そこで役所の救済をうける課に行って話をしたら、やっとここ(珊瑚舎)が与儀にあると分かった。

 

68歳まで無学できました。戦争で父は兵隊にいき、それっきりです。母は弾で死にました。兄弟がいたような気もするのですが記憶にないんです。まったく一人でした。弾が飛び交う中、側にいる大人をお母さん、お父さんと呼んでくっつきまわって生き延びたんです。孤児院にも入れず10年近く7~8名の育ての親というような人たちに引き回されました。今思えば、小さいながらも労働力としてあちこちをたらい回しにされたんです。名前もサチコ、ヨネコ、サチエ、とその親ごとに変えられ、自分の本当の名前を忘れそうでした。それでもいつか、だれかが学校に歩かせて(行かせて)くれるだろうと思い必死で働いたんです。でも、10歳のころ誰も学校にやってはくれないと分かったときは悔しいというか無念で首が横に曲がってしまうほどでした。


30年前ぐらい、どうしても学校に行きたくて役所に相談にいったら弁護士のような人がいて、自分で勉強しなさいと言われました。小学校にも入学していないのにアキサミヨー(とんでもない)と思ったけど、どうしようもないので本屋に入って初めて辞書というものを知りました。言葉でいっても通じないかもしれないけど、無学ということは暗闇、真っ暗ということなんだよね。やるべきことは必死に努力してみんなやってきた。人間としてしそこなっているのは学校に行くということだけなんです。もの心ついてから、そのことが苦しい。こんな哀れは残るんです。10歳から待っているんですから。


字をゆっくりでもいいからきれいに書くのが嬉しい。昨日理科で台風と温暖化について習った。漢字が難しいけどカナをふってあるから大丈夫。どの科目が好きか嫌いなんてない。みんな好き。どんなことがあっても引けない。ここの学校に来ないわけにはいかないんだよ。それだけ無学のままのこの60年間は真っ暗だったんだ。(2008年 K.T.さん 女性 談)


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