今回は私(豊田)が、なぜサポート校を「滝野川高等学院」と名付けたかについて書きます。長い文章なのでお時間のあるときにお読みください。

 

 

「滝野川と私」

 

 都会なのにどこか故郷を思わせる風情のある町並みに、都電荒川線の路面電車が細やかに弧を描きながら併走していました。

 

「やはり、ここがいい。」

 

 サポート校の立ち上げに際して、まずはその本校となる場所を選定する必要があります。どこに学校を構えるかを、駅から降りたときの直感に任せることにし、私は数週間かけて23区内の20もの駅を巡りました。

そして、京浜東北線王子駅を降りたとき、やはりここにすることになるだろうな、と思いました。

 

 東京都北区は、1947(昭和22)年に王子区と滝野川区が統合して成立したという過去を持ち、王子駅の辺りはその2つの区のちょうど境界線あたりに位置しています。

この町は、100年ほど前、「大正自由主義教育」、あるいは、「大正新教育」という新しい教育が目指された地であり、今も多くの大学、短大、専門学校などがキャンパスを構える教育の地となっています。しかし、私にとってこの場所が特別なのは、もっと個人的な理由からでした。

 

 「大正自由主義教育」。その概略は大学の頃、教職の講義を受けていたこともあり、知識として知ってはいました。しかし、その頃の私にはそれが、私にとって身近なものであるなどということは知る由もありませんでした。

 

 さて、話は90年以上も前。当時、大正自由主義教育のリーダー校として、新教育をスタートした滝野川小学校に山口県出身のひとりの若い教員が赴任することになりました。台湾の大学で教育学を学び帰国したばかりのその青年は、新教育の理想に燃えて東京の地を踏みました。彼の名を本田正信といいます。

 このあたりのことは私より、大正自由主義教育を扱った論文のほうが詳しいので、ここからは、論文の引用を中心に正信青年のことをお話します。

 

 東京の滝野川小学校の教師であった本田正信は、学級の記録をしばしば発表した。1929年度入学の子どもたちを 6 年間持ち上がりで担任した際、3年生担任の1931年度後半から「集団主義教育」に取り組んだ。(中略)本田は、「個人を本位とする」学習の欠点を乗り越えようとした。形の上では集団で行なう討論も、個人の活躍が主となると、「『揚足取』の雰囲気を濃厚にきざす個人的対峙の討議が行われるだけ」になってしまう。

 つまるところ、「学習の方向が学級全体の歩みによって掉されるのでなく、ただに一人か二人かの児童によって左右される」。この弊を脱するため、「学級の学習がその経過と共に水準を高めつつ前進的理解をとげる」よう、発表や討議の方向を変えた。「個人的でなく協同的に、対峙的でなく構成的に、詰問的でなく相談的に、更にまた個人的立場からでなく、代表的立場のもとに」発言するよう、子どもを導いた。学級の子どもたちが「個人的な集りとしてでなく、学級という集団を構成する成員の一人」となる学習を目指した。各自の活動が「学級の学習全体を高め且つ旺盛ならしめる前進的位置にあるもの」となるよう、集団での学習を組織した。」(吉村敏之「雑誌『教育論叢』における子ども研究 : 教師による学級集団の観察と記録」宮城教育大学紀要 第48巻 2013 283284頁)

 

 つまり、正信青年は、「個人ばかりに目を向けていてはダメ。人は人との関わりの中で成長するのだから、クラスをしっかり作ることが大切。クラス全体がまとまって成長したら、生徒が生徒を教え、個人個人をさらに成長させ合うことができる。」と考えたのです。

 このように「大正自由主義教育」は、教え込む教育とは一線を画していて、むしろ、なるべく生徒に教えないように、生徒が自ら考えて動くようになることを目的とした「教えない教育」でした。また、正信青年は、

 

 子どもに応じた指導をするために、まず、「児童の生活事実」から学ぼうと、「遊び」に注目した。すると、「学習についての興味以上に、遊びに対して様々のグループをなし、異常の真剣さをもって行なわれつつある態度」が見えた。「私の脳裡にあった児童とは、ウッテかわった連関のうちに動いている児童を、発見せずにはおれなかった」。

 

 と言っています。つまり、「遊んでいるときの子どもをしっかり見ていると、子どもたちが個人ではなくグループで役割を持って取り組んでいるのが分かる。勉強しているときの子どもたちは、個々に切り離されていてあんまり真剣じゃない感じなのに、遊びのときはそれぞれが深い関わりをもって超真剣に全体で成長している。そのことに気付いて僕は驚いた。学校にクラスが必要な理由がやっと分かった。」と子どもたちの遊びや日頃の姿から正信青年自身も色々と学び、教員として成長していったのでした。

 

 そして授業が終わり、生徒たちが家に帰ったあとは、活動から分かったことを克明に記録して、それを論文にまとめて次々と世に発表していきました。その数は10本以上に及び、正信青年は、新しい時代の教員として高く評価されるようになりました。

 

 しかし、転機は思いもしないところでやってきました。昭和13年。日本が第2次世界大戦に突入する日が刻一刻と迫ってくるなか大正自由主義教育自体が終わってしまったのです。その当時の日本には、もはや生徒たちを自由に勉強させてクラス全体で成長させる時間も、教員が生徒の遊びを見守りながら色々なことに気付く余裕もなくなっていました。国家総動員法が出されるような時代の流れのなかで、教育もまた、国家が一丸となって戦争に打ち勝っていくための教育へと変わっていったのです。

 

 正信青年はもちろん日本の勝利を願っていましたし、そのために自分ができることを必死で探していました。しかし、このとき、37歳になっていた彼の教員としての居場所はもはや東京にはありませんでした。正信青年はやむなく山口県に帰ることにしました。そして、山口県でひっそりと教員を続ける中、日本の負けを知りました。

 時代が移り変わり、正信青年も老人になりました。山口県内のいくつかの学校で勤め、最後は中学校の校長として、教員生活を終えました。

 孫が生まれてよく遊びに来ました。正信老人は、なぜか孫と遊ぶのが苦手で、いつも難しい顔をしていました。孫がせっかくおじいちゃんのところに遊びにきてくれているのに、どう接していいか分からなかったのです。東京にいた頃の自分とは、もうすっかり変わってしまったことに時々寂しさを覚えながら、いつも書斎にこもって書き物をしていた彼は山口県内の自宅でひっそりと息を引き取りました。

 

 青年時代の華々しい活躍からすると、晩年は不遇でした。戦後教育は、戦勝国であるアメリカの教育が入ってきましたから、大正自由主義教育とは違い、やはり教員が生徒に教え込む教育が主でしたから、彼としては、色々思うこともあったでしょう。東京を離れて山口県に戻ってからは、事務的な仕事を中心にこなしていたようなので、あるいは理想を追求することを最後は諦めざるを得ない状況だったのかも知れません。こうして、正信青年の夢は叶わずに終わりました。

 

 それから、さらに十数年が経ち、正信老人がなかなか遊んであげなかった孫にも子どもが生まれました。孫の名は豊田菜穂子(旧姓・本田)。そして、その息子の名を豊田毅といいます。つまり本田正信は私の曾祖父なのです。

 

右が本田正信 左が豊田の母

 

 このことを私が知ったのは、なんと4年ほど前のことです。私の祖母が、何気ない会話の中で、曾祖父・正信の話を出したのがきっかけでした。「正信さんは、台湾の大学を出て、東京の小学校で先生をしていた。いつも書き物をしていた」。ただこれだけのことでした。それからふとした拍子に本田正信について書かれた論文を発見し、私は色々なことを悟りました。

 

 私がいつも生徒たちに「クラス全体で育て合うことが大切。困っているクラスメイトをほったらかしにしてはいけない」。と言っていたこと。そして、どの先生より、昼休みに子どもたちの遊びに参加していたこと。

教員になった頃から、自分の意思をはるかに超えたところで動いている感覚があったのですが、すべてに納得がいきました。この人の気持ちが、母を通して私に流れているのでしょう。

 

 82年ぶりに滝野川に帰ってきました。運命などという言葉を使うのは好きではありませんが、正信青年のように新しいことをやってみよう、私はそう決意しています。

 

 

 

 

本田正信1926 38 25 37歳在任 )は,山口県生まれで,台湾総督府台北師範学 校出身。29(昭和4)年度から6年間男女混合学級を担任しながら,とくに学級集団が 各個人にとってもつ意味,自然発生的なグループの活用について実践的な研究を重ね,昭 10年代には,集団主義教育に力点を置いた研究を進めた。

瀬川頼太郎共著『母への教育報告』(学芸社,1936年),『躾物語』(三井出版商会,1942年) の著作があり,雑誌論文も多い。(鈴木そよ子「公立小学校における大正新教育 : 東京市瀧野川尋常高等小学校の「綜合教育」」(神奈川大学「国際経営論集」1997 139頁)

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