プロジェクト概要

 ページをご覧いただき、ありがとうございます。松田太希(まつだたいき)と申します。

 

 

 

 

 私は、中学生の頃、地域の野球のチームに所属し、プロ野球選手を目指していました。ある日の試合、あまりよくない負け方をしてしまい、監督・コーチが怒ってしまい、試合が終わってすぐに練習場に移動しました。「反省をしろ」という監督・コーチの意図があったのだと思いますが、その時の練習は恐怖でしかありませんでした。ミスをしたら怒号が飛んできて、「死ね!」と言われました。そして、最終的には、チーム全員整列し、端の仲間から順番にビンタをされました。それは、父兄のいる前で行われました。ただ、それよりも、その時の自分が、ビンタの順番が来ることを律儀に待っていたことに、自分でも驚き、ワケの分からない気分になっていました。

しかしチームメイトやその親たちは「それくらい我慢しないと」という調子でした。チームメイトにはコーチの息子もいたのですが、彼が殴られている場面はとても悲惨だったので、目をそらすことしかできませんでした。子どもながらに「家に帰っても彼はつらいだろうな」と感じていたことを覚えています。

 

 

 

 

 

 そんな経験があったので、高校生になってからは、野球部ではなく、バレーボール部に入りました。ワールドカップバレーをテレビで観て「こりゃかっこいいスポーツだ」と感じていました。この時の部活には指導ができるような顧問がおらず、基本的には自分たちで練習していました。僕は初心者でしたが、3年生の頃にはチームのエースとなることができました。その時の部員たちには恵まれました。やりたいようにならせてくれました。彼らには今でも感謝しています。そんな経験によって、僕は自分たちで考えてスポーツをやることのすばらしさを理解することになりました。

 

 高校の部活を引退した後は、地元のスポーツ少年団のバレーボールのコーチとして、お手伝いをしました。しかし、そこでもまた、悲惨な体罰・暴力を目にしました。具体例は数限りなくありますが、今でも鮮明に覚えているのは、エーススパイカーの女の子がミスをした後、狂ったようなテンションで指導者がその子の髪の毛をつかみ、体育館をひきずり、得点版に顔をぶつけていたことでした。助けに入るべきだったのに、足がすくんでしまってできませんでした。今でもあの子に申し訳ないことをしたと後悔することしかできません。

 

 

 

 

 

 大学でもバレーボールを続けましたが、大学時代もやはり暴力を目の当たりにすることになりました。

 ある強豪校の練習に参加した時、監督教員が現れたとたん、それまでのわきあいあいとした体育館の雰囲気が一変し、「何かが起きる」という張りつめた空気に変わりました。鈍い音がしたと思って振り返ると、同校の部員が殴られていました。僕としては、その監督教員がその著書で「自分は殴らない」「体罰はいけない」といいた趣旨の文章を明記していることを同書を読んで知っていたので、その瞬間、「こんなやつらを真面目に相手にしようとしていたオレがバカだった」と吹っ切れました。

 

 ただ、そうはいっても、暴力という過酷な現実をこの目で見た衝撃と、それに対する問題意識が完全に消え去ることはありませんでした。

 そこで、卒業論文と修士論文では、暴力的な体育・スポーツの風土がどこから来ているのかを、学校体育史や師範教育史を詳細に調べていくことで明らかにしようと試みました。しかし、「なぜ今現在も起きているのか」ということまでは言及できず、その点に不満が残ったので、博士課程に進学し、博士論文では、暴力の根源性に迫る研究に挑みました。

 

 

 博士論文では、体罰・暴力が頻出してい学校とスポーツという二つの場を対象にしました。その時の着眼点は、両者が「或る目的に向かって指導者の下で成員間の連帯が求められる集団」であるという点で構造的に類似しており、その構造こそが暴力の発生を規定しているのではないかと考えました。体罰・暴力に限って、結論を簡潔にまとめると、以下のようになります。

 

①学校もスポーツも、「今よりも良く」という理念が常に上からのしかかっている空間であり、言い換えると、それは「今のままではダメ」という力として作用しています。これを根源的な暴力性と名づけました。

②教師や指導者は、根源的な暴力性が現実に力を及ぼしていくための媒体です。したがって、教師や指導者も必然的に暴力的な存在であることになります。それは「善悪の彼岸」の問題であり、単純に否定するとか、そういうものではありません。

③生徒や選手は、基本的には、その学校やそのチームで生きていくことを考えています。だから、たとえ暴力を受けたとしても、それに抵抗することでその場にいられなくなってしまう可能性があるなら、抵抗しない道を選ぶでしょう。さらに、暴力を受けたとしても、その場に存在すことを、たとえばスポーツ推薦などといった制度によって矯正されている、そして、「自分にはスポーツしかない」と積極的に意味づけてしまえば、暴力すらも「スポーツの世界で生きていくため」というある種の道徳的観念に置き換えることができてしまいます。

④教師や指導者も「良い教師(指導者)」であろうとします。それは極めて普通のことで、然るべきことでもあります。しかし、一生懸命に理想に向かっていこうとすればするほど、自分の中のイメージと現実とのギャップは大きくなります。必死で指導案を書いて準備をしたがために、授業開始時に指示を聞かない生徒を怒鳴ったという実際の例が、僕の身近にはありましたが、それは端的な例です。しかし、怒鳴った以上、それは何らかの教育的意味づけがなされる必要があります。「怒鳴った」という行為がそのまま放置されてしまっては、教師としてあるまじき行為だ、ということになってしまいます。そこで、「怒鳴ったのには〜という意図があった」という意味づけが行われます。体罰も同様です。殴るという行為が「殴った」という事実のまま放置されてしまうと、それはただちに暴行を意味します。しかし、教育の世界において、それはあるまじきことであるため、「殴ったのには〜という意図があった」という意味づけがなされ、「殴る」という行為が「体罰」として意味を与えられます。スポーツ指導場面でも構造は同様です。

 

 

 こうした状況は、客観的に見れば大したことのないように見えますが、その場におかれ、その場で生きている人々にとっては、非常に深刻なものです。外側から別の価値にもとづいて批判することは非常に簡単ですが(たとえば「人生スポーツだけじゃない」といった具合に)、学校やスポーツにはそれぞれに固有の意味があるので、そう簡単には批判できません。

 

 「今よりも良く」ということを放棄してしまえば、教育もスポーツも、基本的にはありえません。良くなっていこうとする根源的な態度によって、教育やスポーツは可能になっています。つまり、学校教育やスポーツの根源的な力と暴力は密接に関連していることになります。これを私は目に見える具体的な暴力現象と区別するために「暴力性」と言うことにしました。

 

 今までの体罰・暴力対策は、おざっぱにいえば、暴力現象という表面的なレベルでしか考えられてこなかったところがあります。厳罰化やアンガーコントロールなどです。たしかに、それは迅速な対応が要求される現場のために必要なものではあります。

 

 

 

 しかし、アンガーコントロールについていえば、「怒りを制御しろ」ということはわかっていても、そうはできないのがある意味では人間の自然なあり方ではあります。そうはできないから困っていると考えた方が、問題のアクチュアリティをとらえているでしょう。厳罰化についていえば、「禁止ばかりされたらどうすればいいかわからない」という声がじつは現場から上がってくることがあります。「殴ることもやめられないのか」と言いたいところだし、実際にそういうケースもあるでしょうが、暴力性という視点から考えてみると、こうした現場の声を単なる無思慮な発言としてバカにしてはならないということになります。むしろ、暴力性という根源的な力に気づいているかのような発言として考えるべきでしょう。

 

 暴力は極めて深刻な問題です。最悪の場合、人命が失われます。しかし、以上のことから、単にそれを禁止したり、問題を起こした者に厳罰を下すだけでは不十分です。今までの対策では不十分だったことは、その端的な証左でもあるでしょう。では、どう考えるのか。やはり目を向けるべきは「暴力性」です。暴力性が、体罰・暴力だけでなく、教育やスポーツの根源に関わる力であるのなら、「暴力を顕在化させないためにいかに暴力性と付き合っていくのか」という極めて実践的な問題に取り組むことが私たちの課題ということになってくるでしょう。

 

 しかし、では、どうやって?この先も、哲学や教育学の文献の吟味・検討・解釈を続ければいいのでしょうか。おそらく、それには限界があります。

 したがいました、ここからは先は、これまでの研究で明らかになったことを大きな分析枠組みとしつつも、あとは個別の問題状況にコミットすることでしか解決の糸口はありえないでしょう。「教育・スポーツ文化研究所」は、ここにコミットするための機関です。

 

 

 

 じつは、すでに関連団体からの依頼を受け、外部有識者として活動していたことがあるのですが、そこでわかったことは、大きな組織になってしまうと迅速で柔軟な対応ができないという、これもまた深刻な現実でした。しかし問題意識を持っている人々はたくさんいました。問題の深刻さに気づいている人がいるにもかかわらず、深刻な実態にコミットできないという現実は、やはり変革していかなければなりません。そうして構想されたのが本プロジェクトです。具体的には、以下のようなポイントを掲げて活動を行います。

 

①暴力被害者のための相談窓口とケアの体制の整備。関係各所との連携。

②暴力加害者のための相談窓口とケアの体制の整備。関係各所との連携。

③教育やスポーツ指導の方法の探求。

 

①:暴力を受け、深刻に悩み苦しんでいる生徒や選手のホットラインです。個別の状況に応じて、助言・進言をおこないます。危機的なケースにおいては、精神科医などと共同し、心の回復に向けたケアやサポートをおこなっていきます。

 

②:この点が本プロジェクトの最も特徴的なところです。すでに述べたように、暴力加害者であれ、苦しんでいるケースが非常に多いです。「どうすればいいのか」という声を受け止めるためのホットラインです。視線をずらせば、虐待問題やアルコール中毒といったことにもケアやサポートが必要なように、暴力問題についても、やはり求められるでしょう。個別のケースや相談者の個性に応じて、助言をおこないます。

 

③:重要なことは、何に困って暴力を行なってしまったか、という問題です。そこでは性格上の問題など様々なことがまさに個別の状況に応じて考えられるでしょうが、最も重要かつ考えるべきことは、「どうすればうまくできたのか」という方法の問題です。この機関では、関連する機関とのネットワークをフル活用し、優秀な研究者や教師・指導者に共同していただき、個別のケースに応じて、相談者と一緒に解決策を考えるということになります。教育学やスポーツ哲学にはたくさんの知見がこれまでの研究によって蓄積されています。現場だけでうまく突破できない課題があれば、そうした知見を有効活用しない手はありません。もっとも、重要なことは、単に「こんな方法ありますよ」と提示して終わるだけではなく、相談者が実践の中で考え、乗り越えていく力が身につくようになるまで継続してサポートすることです。そのような「乗り越えた相談者」は、今度は、次の相談者の相談に応じることで、その経験を活かすことができます。そうした存在は、悩んでいる人々にとって非常に貴重なものとなるでしょう。

 

①〜③の活動が有機的に絡み合い、継続され、課題を突破できる教師・指導者が少しずつでも増えていけば、それは教育界・スポーツ界が変革していく大きなうねりとなっていくはずです。

 

 ここでご支援をお願いしたいことは、①相談者のための「問い合わせフォーム」などを設置したHPの開設に係る諸費用へのサポート②関係各所との連携・打ち合わせのための移動費、となります。

 

 すでに記しましたように、私自身が過酷な暴力の現実を経験し、その経験にもとづいた研究を行なってきました。体罰に関する論文は、学会から賞を受けたこともあります。適切な表現ではないかもしれませんが、経験と実績があります。必ず有効な解決の糸口を、現場の方々と見出していけるだろうと感じています。非常に優秀な協力者とのネットワークもあります。

 

 本プロジェクトの理念と活動が重要なものであることは間違いありません。暴力問題に関する私の論文は、学会から二つの賞を受けています。

単なる思いつきや衝動的なアイデアではなく、一定の評価を受けている研究が、この活動の根拠にあります。それにもとづいた現場の方々とのこれまでの交流の中で、変革に向かっていこうとする人々との、たしかで強力な共鳴がありました。非常にかすかではありますが、そのようにして生まれた”炎”をより一層大きくすることを、金銭的な問題を理由にして先延ばしにしたり、絶やしてしまうわけにはいきません。どうか、みなさまのご支援、よろしくお願いいたします。

 

 

プロジェクト終了要項

以下の2つを実行したことをもってプロジェクトを終了とする。①2019/08/01から2020/03/31までの間、すでに依頼のある相談者との面談を3回行う。②2019/12/1から2020/3/31までの間、関係各所との会議を3回行う。*相談者との面談について。相談者:決定済み。スケジュールの日程、面談場所は2019/07/31までに決定する。*関係各所との会議について。相手先、スケジュールの日程、開催場所は2019/12/1までに決定する。


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