僕自身の生い立ち

 

僕のプロフィールを既にご覧になられた方は、ああ、なんか賢いヤツ、もしくは、エリートが何かやろうとしているんだな、と思われたかもしれません。僕はビジネスプロフェッショナルとして、20代を過ごしましたし、それ以降は起業家として人生を送っています。したがって、それも僕を表す大切な部分ではあるのですが、人生はもっとドロドロとしていて。

 

「お前、ほんま身体弱かったよなあ」

 

と、昨年末に大阪に戻った時に忘年会で友人が僕にぽろっともらしていました。僕にはなぜか嬉しく聞こえてしまって…。それは僕にとって当たり前だったはずのことなのですが、時が経つに連れて、”強く”振る舞う自分というのも当たり前になってしまったところがあって。

 

さて、僕自身は、1980年の大阪市に生まれ、強度の喘息児として育ちます。当時の大阪では、気管支喘息に対する公害補償が行われていた頃で、多くの人々が亡くなりました。僕は「喘息で人が死ぬかもしれない時代」の最後の方を生き延びてきたことになります。

 

”社会”から隔絶された全寮制の養護学校で学んだこと

 

僕が自分のことと社会のことを分けて考え始めた頃。つまり、小学生の高学年の時。僕は大阪の南端にある貝塚養護学校という全寮制の養護学校で暮らしていました。喘息児を始め、一人では日常生活が送れない子どもたちが集められ、空気の良いところで、看護師さんのケアのもとに暮らすという場でした。

 

僕がどうしても社会のことを変えたいと思い始めたきっかけはそんなところにありました。

 

そう、その時期の僕は、今とは全く違っていて。今、僕は「社会を変えられる」のだと信じています。だけれど、当時の僕は社会が変えられるなんてことを信じることなんてできなくて、自分の運命を呪ったりするばかりだった。満足に呼吸をすることもできなくて、”普通の子たち”が行けるはずの”普通の学校”にも行けなくて、自分に価値なんかないんだと思うようになっていました。

 

でも、そんな僕にでも不思議に思えることがあって。寮の中に、仲の良い子が二人いたんですが、二人共、僕よりもずっと重い病因に苦しんでいたんです。一人は、アトピーがきつくて、酸素テントという特殊な施設の中でしか暮らせないかどうかというスレスレ。もう一人は、喘息がきつくて、さらに先天性にヘモグロビンが少なく、喘息の発作が起きると、命取りになりかねない。

 

彼/彼女が明るかったんですよね。病気のために親元を離れて寮で暮らす誰よりも。そこで、僕は思い始めるんですよね。「ポジティブかどうかってのは、病気と関係ないんやね。」って。そういう感覚が自分のものになるには、すごく時間がかかったんですが、でも、やっぱり、関係ないんですよ。一番、病気が重い子らが一番明るいんやから。そうすると、自分はなんで、クヨクヨしてるんかな、なんて思い始めるわけです。

 

なんでこんなことを話をしているかというと、やはり、僕は、”弱い”方に立って居たいと思うし、自分自身やその運命と戦ってきた友人たちを迎える気持ちでも、”弱き者”の中にある可能性を信じる側でいたい。そして、それが混沌とした社会の中で、僕を”正気”のままにしておいてくれるというか。

 

”弱い”という感覚は、他人から”貼られた”ものにしかすぎません。でも、そのラベルやレッテルが当たり前になる中で、たしかに、僕らのちからは奪われていってしまって。僕は、それと闘っていたいんです。

 

もちろん、社会のこととかを考えたりはしますが、僕がやりたいのは、単純に、運命と戦っているひとたちを応援したいというだけななのかもしれません。(続く)

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