京都の街角で、あなたがもしひと際目立つ「華麗なティッシュを配り」を目撃したなら、それは間違いなくボクだ。何を隠そう、ボクは映画作りよりも、文書を書くことよりも、ディッシュ配りの才能があるらしい。受け取る人を見つける的確率、配るスピードに置いて、右に出る者はほぼいない思う。
ティッシュ配りのコツは、「配る」のではなく「置きに行く」感覚だ。


新進気鋭の若手「映像作家」もしくは「監督」の実情はどうか...?
ただのティッシュ配りである。
しかしそこには傍目から見える自己卑下的なニュアンスはない。あくまで個人的な領域での気品とプライドを持った、ティッシュ配りのスペシャリストとして、である。


ここ半年、自分のすべてをバイトに捧げている。
祇園や木屋町のキャバレークラブで黒服として週6、7日出勤し、シャンパングラスを磨き、フルーツ盛りを作る。近頃、やっと「さまになる」フル盛りを作れるようになった気がする(写真)。
クロスでシャンパンを磨きながら、フルーツを切りながら、或いは街角で「華麗なるティッシュ配り」をしながら、脳裏では「映画の着地点」を何十回も何百回もシュミレーションしている……。


何かを始めるということ、それは同時にいつかの終わりを意味する。
5年間広げ続けていた大風呂敷を、そろそろ畳む時期がやってきた。寂しくもあり、ほっとする部分もある。
なんたが長く連れ添った恋人とのお別れのようであるが、実際の気分はとても近い。胃の辺りがぎゅっと締め付けられる。



2019年は国内外問わず、場所を問わず、出来る限り映画を上映していく。
もう需要が無いと判断したときはお別れしなくてはならない。
そしてそのお別れの足音が微かではあるが、着実に近づいている。

ふと思う……もし自分から映画がなくなったら何が残るのか?
蝉の抜け殻みたいになって、毎日ベランダで日向ぼっこしているかもしれない。あるいは読みたい本を片手に、良さげな喫茶店探しに出かけているかもしれない。

「最終章」を迎える前に、あえて「映画の着地点」を描いてみたい。
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ボクは「どこかもわからない場所」にいる。
ほとんどの人は場所の名前を聞いても「ふうん」と聞き流すだけだろう。でも少し変わり者のあなたは、名前の響きから何となくその場所の情景を想像し、独り言のように呟く。
「どこだろう? 聞いたことないな…」
異国の情緒溢れる言葉に、あとで地図を広げて確認しなくては…と思いながら忘れないように何度も何度もと反芻する。
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地図を広げた先にボクはいる。
良く晴れた日、ひんやりとする朝の風を受けながら、テラス席でコーヒーを飲んでいる。いつか読もうと思っていた本をリュックサックから取り出し、やっと手に取れる喜びを嚙みしめる。しかし目の前に広がるあまりの平穏さにどうしても過去の記憶に浸ってしまう。
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家が無くて公園で寝てたとき、
お寺から破門されたとき、
資金難に陥った時、
鹿と遭遇して死にかけたとき
暴漢に襲われたとき
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必ず、手を差し伸べてくれる人がいた事。
困難はいつもどうにか乗り越えられた事。
得たものと、失ったものを天秤にかけたとき、明らかに得たものが多かった。でもそんなことはもう過ぎ去ったことであるという事実が少し寂しい。
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感情の高ぶりから、いまいち集中できず本を閉じる…。



…ホステスの甲高い笑い声、シャンパングラスが触れ合う乾いた音、タバコの煙と、男物と女物のパヒュームが入り交じった独特な残り香…そんなものが、ボクを強制的に「今」に連れ戻す。


きっと、あともう少しなんだ…。

 

最後まで走り抜けます。

 


角田龍一

 

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