投稿⑥【アンチ“インスタ映え”というわけではない】(残り19日)

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一昨日、自宅のある大阪に戻り、ひと息ついているところです。

前回の投稿に少なからず反響がありました。ありがとうございます。広報と並行して、制作も少しずつ進めております。もう少しペースアップしたいところではありますが…。



さて、今回は旅のまとめのようなものを書こうかなと思っています。
とはいうものの、ヨーロッパにいたときは、毎日夜明け前から喫茶店に入って書き物などをしてから、その日の用事を済ましてはさっさと寝るような生活をしておりましたので、書けることはクロワッサンと珈琲と映画くらいしか無いのも事実です。


もともとボクは人混みが苦手なので、あまり観光もしませんでした。(唯一意図的に行った観光地は「彼」=郷古君の案内で行ったシュテファン大聖堂です。)

土日は喫茶店がいつもより一時間ほど遅れて開くので、そういう時はゆく当ても無く、ただただ街をウロウロしておりました。20分ほど歩いては立ち止まって靴の中に入った砂を取ってはまた20分くらい歩く。三回ほど繰り返すころには太陽も昇り、喫茶店も開いておりました。

都会でも、歩道には意外と細かい砂利のようなものが多く落ちていたのに驚きました。「靴の中の砂を最後に取った」のは日本では思い出せないくらい昔だったので、しつこく付きまとってくる大きめの砂(あるいは細かめの砂利)は新鮮な不快感がありました。


そのように訪れた街をぶらついては、何となく周りを観察しておりました。
ベルリンでは約200m置きに、犬の糞とタバコ兼用のゴミ箱(何故か糞とタバコ限定!)が置いてあったり、公園の遊具のチョイスのセンスは日本形式的なものよりもいくぶん現実的であったり、あるいはチェコ経由での夜行バスでは休憩のタイミングが完全の運転手の気分なのにも驚きました。
ウィーンの地下鉄の標識は、ベルリンのそれよりかなり簡略化されていて、乗り換えがスムーズでとても助かりました。

そんなわけで、やることがないときは、ボーっと歩いたり眺めていたりしていただけなのですが、それはわりに楽しいものでした。終始一人旅でしたがこれと言って孤独も退屈も感じませんでした。




つらつら書きましたが、この話のオチは「その国柄を体現するもの」は案外身の回りに落ちているのでは?ということです。

対象物を大きな視野で捉えようとするとき、包括的で抽象的な表現――例えば国家や民族――に行きがちかなと思います。観光地がその国を象徴するものが多いのも、もしかしたら関連があるかもしれません。

しかしそれはどこか自分のイメージに近づけようとしていて、対象物を捉えていないような気もするのです。「インスタ映え」を求め観光地に行くのは、既にある自分の脳内イメージと同じものを探しに行っているように、時折思えてしまうのです。言い換えれば自分の脳内イメージとかけ離れたものは、無意識に捨象されていることにもなります。


述べたいことは、アンチ「インスタ映え」というわけではなく、自分の脳内イメージから離れることは、自分が思うより難しいということです。

というのも既存のイメージとから離れるには、前提としてそのシステム自体を俯瞰しなくてはならないからです。「これって絶対正義!」と思いつつも「いや、やっぱどうかな」と思う優柔不断さの中で、暫定的な結論を出していくしか無いのかなと思います。



だからこそ、何気なく向き合っている今をじっくり見つめていくことで、忘れていた何かが発見できるのかなと思いました。抽象的なものよりも、具体的で見過ごされがちな日常やパーソナルなもの、そのようなものの中にこそ、実は簡略化されて実体の伴わない「国家」や「民族」を、現出させうる力があるのかもしれない…そんなことを思いながらあっちこっちうろついていたわけです。


ボクも「中国朝鮮民族の物語」と題して極めて個人的な視点で映画を作っているわけですが、「民族」題するにはあまりにも大袈裟なのでは?と自問自答することも多々ありました。

しかし「民族」を個人的な物語を抜きにしては語れないのも明確な事実です。それを強く自覚できたのが今回の旅の収穫です。


お読みいただいてありがとうございます。
また更新します。

PS.個人的には「自転車置き場」と「トイレ」がもっともわかりやすく国柄を表していたような気がしました。気がしただけかもしれませんが。


角田リュウイチ
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