おかげさまで支援額800万円、達成率16%を超えました!引き続き、みなさまには情報拡散へのご協力をお願いいたします。

 

本日は土曜日ですが、まったりとお過ごしのお時間に、少し難しいお話をお読みいただきたいと思います。

 

◇ ◇ ◇

 

第一次世界大戦中の1916年に戦車が登場してから100年余り。

 

最初の戦車生産国のイギリスですら新規の戦車開発を止めています。実は、戦艦大和やミズーリなどの戦艦が、空母やミサイル巡洋艦にその座を奪われ、姿を消したように、戦車も急速に世界各国の陸軍から姿を消して行きそうです。

 

・戦車の価格が上昇し、平時の維持にすら経済的負担を感じる国が増えたこと

・大国同士が国境を超えての「大規模侵攻」を行うリスクが減っていること

 

を受けて、生産数や配備数が漸減しているのです。

 

 

この傾向は日本も同様で、最新鋭の10式戦車の生産は低調となり、履帯(キャタピラ)ではなく、タイヤで走行する16式機動戦闘車に数の上で主力の座を譲ることになりました……。

 

 

我が国では昭和2年(1927年)に国産の「試製一号戦車」を開発し、その試験走行を、富士演習場の御殿場地域で行いました。この試験結果が良好であったことを受けて、問題点を修正した上で初の国産戦車になる「八九式中戦車」が量産配備されました。

 

 

その後、トラックやオートバイの使用が増えると、最高速度時速25kmの八九式中戦車は部隊の移動に追いつけない事態が発生。

 

そのため、最高速度40km程度(当時のトラックやオートバイに合わせた)の快速戦車が求められ、誕生したのが、今回修復と里帰りを目指す「九五式軽戦車」でした。

 

皇紀2595年(昭和10年、西暦1935年)の末尾を取った「九五式軽戦車」は、偶然にも我々が先ごろ修復作業を成し遂げた「くろがね四起」と同じ制式採用年なのです。

 

この頃の日本の航空工業や自動車工業は、外国人技師の指導を完全に離れて日本人技師だけで歩んでいました。

 

 

現在日本国内では、戦前・戦中の日本戦車は不当に低い評価をされていると感じます。それは戦前に開発・配備された九五式軽戦車と九七式中戦車で終戦まで戦い抜いた結果もたらされた評価であり、なんとも複雑な気持ちです。

 

終戦間際に2台が試作された「四式中戦車チト」。欧米の戦車に比肩する性能を持っていましたが、当時の日本では量産、配備する余力はもはやありませんでした。

 

戦後、先の大戦の反省から国産戦車の開発は再出発しました。

 

陸上自衛隊が使用する「最新10式戦車」に至る100年の系譜のなかで、重要な位置を占める「九五式軽戦車」と「九七式中戦車」は、列国のコピーではなく、想定される戦場での運用のニーズから生まれた戦車です。

 

上記写真の「四式中戦車」の設計、試作の経験は、十余年を経て、戦後初の国産戦車「61式戦車」の開発に生かされました。

 

日本独自の設計、製造から運用、戦地での悲惨な運命に至るまでのすべてが技術遺産なのだと思います。

 

戦後十余年の空白期間を経て、開発されたSTA(後の61式戦車)には、旧陸軍戦車のDNAが色濃く残っていました。

 

優れた兵器とは、必要とされる戦場に、必要とされる時に、しっかり配備され活躍したモノを指す。とすれば、旧日本軍戦車の歴史的評価としては、開発・製造時の想定通りの運用をされなかったことこそ責められるべきでしょう。

 

それは現在の我が国の安全保障にも同様に当てはまります。

 

当時の日本の兵器は欧米に比肩する性能を発揮するために、背伸びをし、足りない部分を設計や運用でカバーしたモノが多いと感じます。実際に、オイルシールやパッキンなどの化学製品の遅れや、工作機械の精度不足による量産部品の品質低下などは、アメリカの車両や航空機と比べると悲しくなります。

 

しかし、だからといって何もしないで諦めてしまえば、そこで試合終了です。

 

安全保障とは抑止力です。無いモノは無い。しかし、知恵を絞って設計し、製造し、運用した先達たちの工夫を「日本の技術力」として後世に伝え、歴史から学ぶ機会をなんとか作りたい……。

 

だからこそ物言わぬ歴史の証人として、この九五式軽戦車の修復と里帰りとを実現し、次の世代へ残したいと思うのです。

 

実行者:小林 雅彦

 

▼ご支援はこちらから

新着情報一覧へ