日本三景松島の雄島を、祈りが集まる霊場に。坐禅堂の復興にご支援を。

日本三景松島の雄島を、祈りが集まる霊場に。坐禅堂の復興にご支援を。

支援総額

10,888,665

目標金額 7,000,000円

支援者
229人
募集終了日
2023年9月15日

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プロジェクト本文

第一目標達成の御礼とネクストゴールについて


瑞巌寺の坐禅堂復興のためのクラウドファンディングを応援くださり、誠にありがとうございます。


お陰様を持ちまして、8月22日、残り1ヶ月近くを残し第一目標金額の700万円を達成することができました。初めてのことで不安も多い中での挑戦でしたが、皆様からあたたかな声援を数多くお寄せいただき、関係者一同、大変感激しております。心より御礼申し上げます。


皆様からのご支援によって、坐禅堂の建て替えを進めることができます。しかし、復興にはお堂だけではなく、その中に安置する雲居国師の尊像と雄島に眠るすべての御霊を供養する為の萬霊牌(お位牌)を制作するという課題も残されています。


そこで、クラウドファンディングの残りの期間では、これらの制作費を引き続き募らせていただき、ネクストゴールを1000万円に設定させていただくことにいたしました。
雄島が再び霊場として多くの方々にご参拝いただける日を夢見て、今後も発信を続けてまいります。
最終日の9月15日23時まで、引き続きのご支援と応援を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。


8月25日追記
瑞巌寺

 

 


日本三景、宮城県の松島。260あまりの諸島からなる松島の中でも、雄島 おしま は古くに霊場として信仰を集めた、松島の核となる場所です。

 

しかし現在では、古地図に見られる堂宇は失われ、 頼賢碑 らいけんひ 、真珠稲荷大明神、薬師堂跡の石仏の薬師如来のみが残っています。そしてその雄島で、かつて重要な役割を担っていたのが、 雲居国師坐禅堂 うんごこくしざぜんどう です。

 

雲居国師が禅室としたことが始まりとされる坐禅堂は、残念ながら建立当初の御堂は失われ、現在では後代に建てられた御堂があります。しかしそれも長い歳月潮風に曝され、さらに東日本大地震などの自然災害を受けて倒れ掛かっており、内部には何も安置されておらず、建て替えが急務となっています。

 

この坐禅堂の建て替えには、総額で3180万円が必要で、補助金も受けられないため全額が瑞巌寺の自己負担となります。そこでこのたび、ご賛同くださる皆様と一緒に坐禅堂を復興し、雄島のかつての霊場としての姿を取り戻すべく、クラウドファンディングに挑戦することとなりました。

 

坐禅堂を復興し、雲居国師の像と萬霊の位牌を安置することは、国師の教えを後代に伝えるのみならず、雄島に眠る御霊の供養に繋がる意義深いプロジェクトになると考えております。皆様からのあたたかなご支援を、何卒よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

クラウドファンディングで実現すること

雄島の雲居国師坐禅堂を復興したい

 

 

ページをご覧くださりありがとうございます。宮城県宮城郡松島町の国宝、瑞巌寺(ずいがんじ)です。

 

本クラウドファンディングは、宮城県の日本三景、松島の雄島(おしま)にある瑞巌寺の「雲居国師坐禅堂(うんごこくしざぜんどう)」の建て替え費用を募るプロジェクトです。

 

雄島にかかる渡月橋
雄島の岩窟群

 

雲居国師(うんごこくし・雲居希膺)は、江戸時代に瑞巌寺を再興した臨済宗の僧侶です。雲居国師との因縁のある、国師の信者である石巻領主の威林正虎居士(慈恩院殿心源受安大姉の子息)が、雄島に小さな家屋を建てて雲居国師の禅室とし、自ら国師に師事したと伝えられます。これが雲居国師坐禅堂の始まりです。

 

この坐禅堂には、若き日に国師と修行を共にした了堂(りょうどう)和尚の筆による「把不住軒」の扁額が掲げられています。「把不住軒」は雲居国師の別号でもあります。

 

※雲居国師の年譜は2種類伝わっています。上記は天嶺和尚に従った年譜で、もう一方の大亀和尚本の年譜では、雲居国師が坐禅堂を建立し、傍に威林居士が寝所を結び、鐘を堂の側に掛けたと伝えられます 。

 

かつて雄島が霊場として、広く数多くの方々から信仰を集めていた時代には、この雲居国師坐禅堂が重要な役割を果たしていました。

 

残念ながら既に建立当初の建物は失われ、現在の御堂は後代のものです。しかしそれも、長い歳月潮風に曝されたことと、東日本大地震などの自然災害により倒れ掛かっており、今や内部には何も安置されておらず、建て替えが急務となっています。

 

現在の雲居国師坐禅堂
現在の雲居国師坐禅堂

 

この坐禅堂の建て替えには、総額で3180万円が必要で、補助金も受けられないため全額が瑞巌寺の自己負担となります。とても私たちだけの力では、復興が難しいのが現状です。

 

またクラウドファンディングを通じて、松島霊場の中心地としての雄島の存在、また現在の瑞巌寺の礎を築かれた雲居国師の軌跡を広く知っていただき、日本三景松島の観光の活性化にも繋げたいと考え、本プロジェクトを立ち上げました。

 

クラウドファンディング概要


■目標金額:700万円

 

■資金使途:現在の雄島坐禅堂の解体工事、後に同場所にて再建工事と坐禅堂内に納める雲居国師坐像の作製する費用の一部に充てます。

 

※本プロジェクトはAll or Nothing方式です。目標金額に1円でも満たなかった場合、ご支援者様に全額返金となります。

 

 

 

かつての松島の核、雄島の現状

霊場としての姿を取り戻したい

 

 

260あまりの諸島からなる松島の中でも、雄島は古くに霊場として信仰を集めた、松島の核となる場所です。

 

数多くの板碑が遺されていることからも分かる通り、あの世と現世を結ぶ境界となる霊場として信仰され、平安末の見仏上人(けんぶつしょうにん)、上人の再来と言われた鎌倉時代の頼賢(らいけん)、さらには雲居国師と名僧達の修行の場でした。

 

佐久間洞巌「塩釜松島図」

 

現在の雄島は、宮城県の管理地と瑞巌寺の管理地に二分され、重要文化財である頼賢碑を始め多くの板碑や石仏などが安置されており、現在も歴史的な遺構が残る神聖な島として、特に地元の方々に信仰されています。

 

しかし、全国各地から多くの方々が祈りの場として集っていた、かつての霊場としての姿は現在では失われてしまっています

 

 

古くから伝わる礼拝対象である雲居国師坐禅堂、雄島稲荷社などを継続的に補修し管理していくことは、雄島の景観や自然を守り、後代に霊場としての重要性を伝えるために非常に大切なことです。

 

重要な役割を果たしてきた雲居国師坐禅堂を本プロジェクトを通じて復興することで、広く多くの方々に御参拝いただき、雄島のかつての霊場としての姿を取り戻したいと考えております。

 

 

 

 

国宝 瑞巌寺

 

 

宮城県宮城郡松島町にある瑞巌寺は、正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。

 

 

9世紀初頭、比叡山延暦寺第3代座主・慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であると伝わっています。後には、平泉を拠点として東北一帯を支配した奥州藤原氏も延福寺を保護しました。

 

藤原氏の滅亡後は鎌倉幕府が庇護者となりましたが、13世紀中頃、幕府執権・北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改めています。これまでは、禅宗への宗派変更時に天台宗延福寺は滅亡し、新しく臨済宗円福寺が創建されたと考えられていました。


しかし、平成23年(2011)の発掘調査によって、円福寺の主要建物群は現在の瑞巌寺と同じ位置にあり、延福寺とは別の場所に建立されたことが判明しており、文献の再考からも、禅宗勢力と天台宗勢力は共に存在していたという考え方が現在は主流となっています。

 

室町時代になると、円福寺は地方の名刹を示す「諸山」の地位に位置づけられ、やがて「関東十刹」に昇進しました。隆盛を極めた円福寺ですが戦国時代を経て次第に衰退し、16世紀末には教線を全国に拡大中だった、現在の宗派である臨済宗妙心寺派に属します。

 

 

雲居国師

特賜慈光不昧大悲円満国師(とくしじこうふまいだいひえんまんこくし)

 

雲居希膺像 左京亮勝綱筆 徹宗宗源賛​​​​


雲居国師は、土佐一條家の重臣である小浜左京の子として、天正10年(1582)にこの世に生を享けました。

国師が9歳の時に、利発で常とは異なる才を感じさせる我が子を俗塵に汚したくないとの思いで、国師の父は土佐中村太平寺に預けます。

15歳の時、父左京が亡くなると国師は正式に得度、仏道に入門しました。

慶長2年(1597)、師匠である真西堂の僧の位が昇ることとなり、師に従い上洛、東福寺に入りますが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍が敗れると石田三成と縁があった真西堂は東福寺を出奔、国師は妙心寺に移り蟠桃院の祖である一宙東黙禅師に師事します。慶長19年(1614)、国師は一宙禅師から禅の免許皆伝である印可を受けます。

元和元年(1615)、大阪夏の陣に際し、国師が貧しい行脚僧時代に国師に帰依を約束し、師檀の契りを結んだ塙団右衛門を励ますべく大阪城に侵入、なんと徳川方に囚われてしまいます。この事件は徳川家康公の寛大な取りなしにより事なきを得ますが、妙心寺山内では後に禍根を残さぬよう従来は宗佐(宗団という説もあり)であった僧名を希膺に改め、道号を雲居としました。

また翌年ある病僧が亡くなったのでこれを宗佐として葬儀を出したと言います。これは温厚にして無為恬淡なイメージの雲居国師の胆力がなみなみならぬものであったこと伺わせる貴重なエピソードです。 

 

正式に道号を得て雲居希膺となった国師は、若狭高城寺の住職に就任。元和6年(1620)あるいは翌年、妙心寺に出世。その後はしばらく松山にあって布教活動をしたと思われます。

寛永5年(1628)、国師は移封された加藤嘉明父子に従い会津に赴き、同地弘誓院に住持しますが、明成の行状に快からぬ事があり、寛永7年(1630)同家を離れます。晴れて自由の身となった国師は熱海興禅寺を拠点としながらも己事究明を怠らず、諸国を行脚、寛永8年(1631)越前越智山で独り坐禅を修して遂に大悟徹底されました。この後、綿密な雲居国師は摂津勝尾寺に隠棲して悟境を深めたと伝えられます。

このように妙心寺出世の後も真摯に仏法に向き合う雲居禅師の名声は天聴に達して、寛永11年(1634)、後水尾上皇に拝謁、法談はよく上皇の意に適ったとされます。

 

一方この頃、仙台藩祖伊達政宗公は壮大な伽藍を建立したものの住職が定まらぬ瑞巌寺の住職候補として、寛永13年(1636)、雲居国師に白羽の矢を立てます。しかし国師はこれを固辞。次いで政宗公はすでに仙台で修行をしていた、後に国師の後継者となる洞水東初禅師(瑞巌寺100世)に親書を託し、妙心寺の長老である単伝禅師にも同行させて国師の説得にあたります。単伝禅師は春日局の帰依を受けた方で、この時94歳でした。

政宗公の手紙は「松島は古くからの霊場で見仏上人、法身禅師、さらには大覚禅師(蘭渓道隆)などの優れた僧侶が修行や布教の場とし、その風光明媚な大自然は多くの詩歌に詠まれて来た。私は円福寺を再興して瑞巌円福寺の伽藍を築いたが、不幸にして住職が早世し、今は住職が居ない状態である。私は雲居和尚が勝雄寺で隠棲されていると聞いている。幽谷の中で心を研ぎ澄ますのは素晴らしいことであるが、是非禅の教えを広める為に瑞巌寺に入寺して欲しい。もしあなたが来松しないなら瑞巌寺を禅寺から他宗に改めなくてはならない。」という内容でした。

 

しかしそれでも国師は松島行きを承諾しません。単伝和尚は政宗公が素晴らしい賢公であり、正法の外護者であること、万が一、瑞巌寺が改宗されることがあっては宗門の大損失であること、さらには勝尾寺入山の際に観音菩薩に二度と下山しないという誓いを立てた故に世間に戻れぬと言い張る雲居国師に、瑞巌寺にあって人天に慈悲を施すことこそが観音菩薩の大願に適うと説得し、やっと国師を翻意させます。しかし、残念ながらこの年の5月24日、藩祖政宗公は薨去し、雲居国師と見えることはありませんでした。

 

二代藩主伊達忠宗公は政宗公の遺命を受けて改めて国師を拝請、文字通り三顧の礼を尽くし、遂に雲居国師を瑞巌寺に迎えることに成功します。瑞巖寺99世となった雲居国師は瑞巌寺の規矩(修行を正しく行うための規範)を整え、政宗公の百カ日忌を営むなど伊達家菩提寺住職の重責を担い、多くの弟子たちを育成しました。

 

また政宗公正室陽徳院様、政宗公長女天麟院様を支え、藩の重臣から庶民まで分け隔てなく接して多くの信仰を集め、その法の流れは旧伊達家領地のみならず京都、滋賀、愛媛を始め広く伝播しています。松島滞在中の雲居国師は頻繁に雄島で坐禅を組み、静寂の境を楽しんだと言われます。この地で幽霊に出会いこれを済度したという逸話が遺されおり、松島の中では大澤地区と並んで特に縁の深い場所となっています。年譜には「扉を閉じて禅坐すれば則ち松籟、寂然として神を澄ましめ、島を繞って経行すれば則ち蒼海、渺乎として視に盈つ。(中略)其の興、其の楽、天壌の際だ、豈にこれに比するものあらんや云々」と記され、雲居国師にとっての雄島が、天に比すべき安寧の地であった事が窺えます。 

 

 

 

応援メッセージ
 

 

櫻井 公一(松島町長)

 

まちづくりの指針である長期総合計画において、町の将来像を「集い、学び、働き、笑顔あふれる美しいまち松島」と定めております。

その中で、本町では豊かな自然を背景とした歴史・文化を次世代に継承していく必要があることから、日本三景松島だからこそ、ふれあうことができる自然と歴史を通じて、ふるさとを知り、学び、郷土愛が育めるまちづくりを推進しております。
また、風情ある観光地として、観光事業者や住民一人ひとりが「おもてなしの心」を持ち、楽しみや癒しを提供することで、観光客が何度も訪れたい、いつかは住んでみたいと感じてもらえるまちづくりを推進していきたいと考えております。
松島の名の発祥といわれる「雄島」での今回の取り組みは、本町が目指すまちづくりにつながるものと考えております。ご成功をお祈りいたします。

 

志賀 寧(一般社団法人 松島観光協会 会長)

 

雄島は、松島の代表的な島で、松島という名称も雄島を指すのであったとも伝えられます。
日本古来から奥州の霊場として名を馳せ、慈覚大師が延福寺開山以来平安末期から多くの僧侶が修行の場所としてきました。坐禅堂は雲居国師が毎夜坐禅に通ったとも伝えられております。また俳人の松尾芭蕉が奥の細道で松島に塩釜から船で訪れ、最初に着いたのが雄島であり、そこから松島で一泊し旅を続けた地でもあります。
観光協会では、豊かな自然を背景とした風光明媚な観光資源の活用を図るとともに、感謝とおもてなしの心を大切に観光客の皆様に「何度でも訪れてみたい」と思っていただける観光業務を推進していきたいと考えております。
なお雄島については、ボランティアガイドが多くの来訪者に紹介しており、今回の取り組みは、特別景勝地「松島」として後世に脈々と伝えると共に、貴重な財産を守り、継承していくためのものと考えております。ご成功をお祈り致します。

 

奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊

 

伊達政宗である。
此度は、瑞巌寺99世・中興開山である雲居希膺和尚にまつわるクラウドファンディングと聞き、伊達武将隊、援軍に馳せ参じた!
仙台藩の領民の安寧を願い、この政宗が再興し、伽藍を整備した瑞巌寺であるが、不幸にして住職が早くに亡くなるなどしたため、わしの晩年には住職不在の寺となっておった。
そこで、白羽の矢を立てたのが雲居禅師である。天下に名僧として名高い雲居禅師を三顧の礼を持って松島へ招聘いたした。残念ながら禅師が松島に来られたのはわしがこの世を去ってからであったが、我が妻愛姫や娘の五郎八姫をはじめ、藩の重臣から庶民に至るまでが雲居禅師に帰依したと聞く。まことに尊き和尚じゃ。
そんな雲居禅師は松島随一の霊場・雄島に庵を営み、坐禅をなされた。残念ながら当初の建物は失われ、後の世に建てられたお堂は東日本大震災などで荒れてしまい、いま建て替えが急務となっておる。
そこで此度、瑞巌寺では、『雲居国師把不住軒坐禅堂復興・霊場雄島プロジェクト』を開催いたす!
雲居国師ゆかりの坐禅堂を復興し、霊場・雄島の姿を取り戻す誠に意義深いプロジェクトじゃ。是非、皆々にも応援してほしく存ずる!
そしてまたこれを機に、日本三景松島を訪れ、その景観や食を楽しみ、この政宗が松島に込めた思いを感じていただければこれほど嬉しきことはない。
さあ皆の者、坐禅堂復興プロジェクトの成功を祈念し、勝ち鬨じゃ!
いざ、エイエイオー!エイエイオー!エイエイオー!!!

 

 


●プロジェクトに関するご留意事項
 

○ページ内で掲載している画像は、著作権・肖像権の所有者より掲載許諾を取得しております。

 

○ 支援完了時に「応援コメント」としていただいたメッセージは、本プロジェクトのPRのために利用させていただく場合があります。

 

○ リターンにつきましては、プロジェクト達成後は、既にご支援いただいたコースから別のコースに変更することはできませんので、ご了承ください。

 

○ 支援時に回答いただく質問項目への回答は支援確定後、変更できません。

 

○拝観券には有効期限はありません。ただし将来的に拝観の受入れが難しくなった場合でも、ご支援者様へのご返金は致しかねますのでご了承ください。

 

○本プロジェクトのリターンのうち、【お名前掲載】に関する条件の詳細については、こちらから「命名権、メッセージの掲載その他これに類するリターン」の項目をご確認ください。

 

○ご支援に関するご質問は、こちらをご覧ください。

 

プロジェクト実行責任者:
吉田 道彦(宗教法人瑞巌寺)
プロジェクト実施完了日:
2024年3月31日

プロジェクト概要と集めた資金の使途

現在の雄島坐禅堂の解体工事、後に同場所にて再建工事と坐禅堂内に納める雲居国師坐像の作製する費用の一部に充てます。

リスク&チャレンジ

プロジェクトに必要な金額と目標金額の差額について
必要金額の差額は自己資金、関係寺院並びに壇信徒からの募財にて補填します

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プロフィール

正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。9世紀初頭、比叡山延暦寺第3代座主・慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であると伝わっています。後には、平泉を拠点として東北一帯を支配した奥州藤原氏も延福寺を保護しました。藤原氏の滅亡後は鎌倉幕府が庇護者となりましたが、13世紀中頃、幕府執権・北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改めています。これまでは、禅宗への宗派変更時に天台宗延福寺は滅亡し、新しく臨済宗円福寺が創建されたと考えられていました。しかし、平成23年(2011)の発掘調査によって、円福寺の主要建物群は現在の瑞巌寺と同じ位置にあり、延福寺とは別の場所に建立されたことが判明しており、文献の再考からも、禅宗勢力と天台宗勢力は共に存在していたという考え方が現在は主流となっています。

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リターン

5,000+システム利用料


A|松島古地図のクリアファイル

A|松島古地図のクリアファイル

●雄島を含む松島古地図のクリアファイル 

●お礼メール
●ホームページに御芳名記載(希望制)
●礼拝堂の銅像に納める芳名簿にお名前記載(希望制)
●瑞巌寺拝観券
●雄島のご紹介の小冊子

※画像はイメージです

申込数
100
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2024年3月

10,000+システム利用料


B|坐禅堂の端材を納めた御守

B|坐禅堂の端材を納めた御守

●坐禅堂の端材を御内符に納めた御守

●雄島を含む松島古地図のクリアファイル 
●お礼メール
●ホームページに御芳名記載(希望制)
●礼拝堂の銅像に納める芳名簿にお名前記載(希望制)
●瑞巌寺拝観券
●雄島のご紹介の小冊子

※画像はイメージです

申込数
76
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2024年3月

5,000+システム利用料


A|松島古地図のクリアファイル

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2024年3月

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B|坐禅堂の端材を納めた御守

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制限なし
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2024年3月
1 ~ 1/ 13

プロフィール

正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。9世紀初頭、比叡山延暦寺第3代座主・慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であると伝わっています。後には、平泉を拠点として東北一帯を支配した奥州藤原氏も延福寺を保護しました。藤原氏の滅亡後は鎌倉幕府が庇護者となりましたが、13世紀中頃、幕府執権・北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改めています。これまでは、禅宗への宗派変更時に天台宗延福寺は滅亡し、新しく臨済宗円福寺が創建されたと考えられていました。しかし、平成23年(2011)の発掘調査によって、円福寺の主要建物群は現在の瑞巌寺と同じ位置にあり、延福寺とは別の場所に建立されたことが判明しており、文献の再考からも、禅宗勢力と天台宗勢力は共に存在していたという考え方が現在は主流となっています。

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