被災した人たちへ、楽しい思い出を写真集にして配布したい

被災した人たちへ、楽しい思い出を写真集にして配布したい

支援総額

692,000

目標金額 610,000円

支援者
61人
募集終了日
2015年11月27日

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2015年10月30日 21:04

「テネシー・ワルツ」江利チエミ

 2011年4月16日から開始した我々音楽療法士チームの避難所訪問は、初回だけ一泊二日でしたが、諸事情(交通費も宿泊費も全て自腹だったので長期的な継続をするため)により午前は宮古市の避難所、午後は廃業したホテルに避難した障害者施設、夜は山田町の避難所というスケジュールになりました。訪問箇所が小学校体育館の一箇所に固定された宮古市と違って、山田町は担当保健師さんの方針で毎回異なる避難所への訪問を行いました。

 

最初の週末は町外れの中学校体育館、翌週は同じ中学校の武道場、そして街の中心部に近い小学校、高台にある公民館‥毎回全く違うタイプの避難所をめぐりました。体育館のように広い室内に大人数がひしめきあっている場所も、公民館の和室に同じ集落だった数世帯が同居する場所も、どこも大変な生活を強いられているようでした。

 

今でも忘れられないのは、武道場に避難していた幼い姉弟のことです。その家族はお父さんが日本人、お母さんは東南アジア系の女性で、父方の祖父母も一緒でした。一家の大人たちは疲れきった顔で寝そべり、その疲れが子どもたちにも伝わって、ダンボールの衝立で囲まれた一家の暮らすスペースは、他の場所に比べてどんよりと暗いオーラがありました。体育座りで膝に顔を突っ伏している小学校1年生くらいのお姉ちゃんと、ぽかんと口を開けたまま中を見据えている就学前の弟。

 

我々は保健師さんから送られてきたFAXにより、事前に避難所の皆さんから「聞きたい歌」「歌いたい曲」のリストを元に、模造紙に筆で書いた歌詞を100枚超持ってきていました。その中には残念ながら、姉弟が歌えるような児童向けの曲が入っていませんでした。普段のセッションなら、大人用の仕事の現場でもタイミングを見計らってどうにか児童用の歌も大人に楽しんでもらえるようなアクティビティに変換して、一緒に楽しめるような工夫をするのですが、自分も初めての「災害地における避難所での音楽療法」なので、下手なことは出来ません。幸い、懐メロを歌っている最中に姉弟が物珍しそうに私へ視線を向けてくれたので、口パクとアイコンタクトで

 

「手拍子、して!」


と送ったところ、強張った表情のままでしたが、たどたどしく手を叩いてくれました。帰り際、次回の訪問で持ってきて欲しい歌詞を聴取するためのアンケート用紙を、参加してくれた避難所の皆さんに配りました。私はすかさず姉弟のもとへ走り

 

「今日は知らない曲ばかりでごめんね、良かったらおじさんたちに今度持ってきてもらいたい歌を書いてね」

 

と渡しました。紙を受け取ったお姉ちゃんは、この時初めて笑顔を見せてくれました。

 

 東日本大震災の発生から一ヶ月ほど過ぎたこの時期、国道など主な幹線道路はきれいに瓦礫が撤去され、頻繁に遠隔地のナンバーの警察車両や自衛隊車両の行列が往来していました。津波で破壊されたコンクリートの建物には「壊して良い」という印の◯が赤いスプレーで記され、その周囲ではゼッケンをつけた災害ボランティアによる撤去作業が盛んに行われていました。


まだまだ営業している飲食店も少なく、店が開いているとしてもラーメン屋ばかりでした。前述のスケジュールで動いていたので、昼食と夕食どちらもラーメンということもありました。昼は醤油味で、夜はタンメン‥というせめてものバリエーションで気を紛らわすか、コンビニの売れ残ったサンドイッチでしのぐ程度の選択肢しかありませんでした。

 

 そのコンビニも、駐車場は待ち時間が発生するほど混雑していて、トイレの行列もかなりのものでした。避難所のトイレを使わないよう決まりを作っていたので、何度もコンビニでトイレ待ちをしているうちに、棚の雑誌は全て立ち読みしつくしたこともありました。

 

 数週間後、あの姉弟がいる避難所への二度目の訪問日となりました。再開を楽しみにしていた私が建物の中に入ると、ちょうど保健師チームによる感染症予防の説明会が行われていました。それぞれのスペースに敷かれたゴザの上で、微動だにせずじっと説明に耳を傾ける真剣な大人たちをよそに、あの姉弟たちが壁際のスペースで何やら満面のえみを浮かべながらじゃれあっているのが目に入りました。この間より表情が格段に良くなっている、と安心したのもつかの間、次の瞬間

 

「ちょっと!!うるさくて保健師さんの声が聞こえない、黙らせて!!」

 

 と大人の女性が大声で一喝しました。しん、と静まり返った中で姉弟は肩をすくめて小さくなり、そばにいたお母さんが二人を抱き寄せました。

 

 やがて不穏な空気のまま、我々の出番に。いつも通り、弟子Yが一人ひとりに

 

「これからここで音楽が鳴りますが、もし音が苦痛だったら言ってくださいね」

 

 と確認を取りにまわりました。毎回、こうやって全員に許可をもらってから開始していたのですが、この日も幸い(沈鬱な空気だったにも関わらず)誰からも拒絶されなかったので、活動を開始しました。前回渡したリクエストカードから順番に曲を弾き始め、小さな声ではありましたが、あちこちから歌声が聞こえてきました。姉弟はまだ下をうつむいたままです。終盤に差し掛かった頃、珍しく英語の歌詞の曲を歌うことになり、それがテネシー・ワルツでした。

 

「これをリクエストしてくださった方はどなたですか?」

 

 私の問いかけに、姉弟のお母さんがぎこちない笑顔で挙手してくれました。

 

「これなら、私、知ってる。歌えるから」

 

 お母さんは私の伴奏に合わせて、流暢な英語でとても上手に歌ってくれました。テネシー・ワルツは「ダンスパーティに恋人と来ていた女性が古い友人に彼を紹介したら横取りされて悲しい」という意味の歌詞なのですが(私はかねがね、杏里「悲しみがとまらない」と一緒だなあ、と感じていました)、他のご高齢の皆さんは江利チエミという明るく元気な歌手のイメージがあるので、そのヒット曲というイメージで楽しんでくださったようです。

 

 避難所生活が一ヶ月以上にもなり、避難していた人々は過酷な生活に疲れ、色んな感情が渦巻いていたと思いますが、自分から弱音を吐かずじっと耐え忍んでいたように見えました。「私だけが辛いわけではない」という心情から、気持ちを押し殺していたんだと思います。しかし、あそびの無いハンドルのように、ちょっとしたきっかけで怒りや悲しみが沸点に達していた時期でした。
 

リターン

3,000


①お礼状(ポストカード)

支援者
31人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2016年2月

10,000


①お礼状(ポストカード)

②写真集1冊

③当法人ホームページへお名前の記載
(掲載を希望されない場合はご連絡下さい)

支援者
20人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2016年2月

30,000


①お礼状(ポストカード)

②写真集1冊

③「三陸ことば絵本」1冊

④オリジナルエコバッグ1枚

⑤当法人ホームページへお名前の記載
(掲載を希望されない場合はご連絡下さい)

⑥仮設住民がヘンプもしくは刺繍糸で編んだミサンガ、フクロウなどのマスコット、布製小物など5点セット
(色や模様、種類は在庫により変更がございます、あらかじめご了承ください。)

支援者
8人
在庫数
1
発送完了予定月
2016年2月

50,000


①お礼状(ポストカード)

②写真集1冊

③「三陸ことば絵本」1冊

④オリジナルエコバッグ1枚

⑤当法人ホームページへお名前の記載
(掲載を希望されない場合はご連絡下さい)

⑥仮設住民がヘンプもしくは刺繍糸で編んだミサンガ、フクロウなどのマスコット、布製小物など5点セット
(色や模様、種類は在庫により変更がございます、あらかじめご了承ください。)


⑦仮設住民と一緒に「歌と体操のサロン」体験にご招待
(2016年9月まで有効、現地までの交通費は自己負担となります)

支援者
3人
在庫数
完売
発送完了予定月
2016年2月

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