前回の投稿は、実行委員の我妻さんの言葉。

今日は、映画祭を応援してくれている人からいただいたメールを紹介します。

こういうお言葉は、大変うれしい!ありがとうございます。

 

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「人がたくさん集まる仙台の街中ではなく、その周縁で、見逃されがちな人たちのいる場所から、世の中にはいろんな生き方があるんだということを、映画を通して発信していきたい。そして普段そうした生き方に触れる機会の少ない周縁の地域でこそ、新しい文化を根付かせていきたい。」

この一文に吸い寄せられ、
その理由が自分でもわからず、しばらく考えていました。


「周縁の地域」で「見逃されがちな人たち」の「生き方に触れる」
うまく言葉にできませんが、なぜかすっとおさまりが良いのです。

 

誰かに何かを伝えたい場合、
人が沢山いる場所で沢山の人に見てもらう。
それが当たり前だと私などは考えます。
でもこういった「当たり前」だと思っている考え方では、
長きにわたり解決されない見逃されてきた課題がある。

例えば「生きづらさ」は短期的なインパクトでは和らげにくいのではないかと推測します。
もちろん沢山の人に知ってもらうことはそれ自体に大きな意義のあることですが、
どうしたって「生きる」ことは地域と不可分ではいられない。
「地域」に「文化として根付かせたい」という言葉からは、
それに対する明確なビジョンを感じさせられました。

いまだ自分のなかでうまくまとまらず、話の筋が悪くて申し訳ありません。
色々思索していたら民俗学者の宮本恒一に渋沢敬三が語った言葉を思い出しました。

「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況をみていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見逃してしまう。その見逃されたもののなかにこそ大切なものがある。それを見つけてゆくことだ。」

人のあつまる仙台の地では見逃されてきた大切なものは、
「周縁の地域」吉岡でこそ見えやすくなるのかもしれない。

いま、そんな風に思っています。

 

(先日メールに書いてあった言葉)
「悪気なく、知らなくて、思いこんで
その境目を越えずに、分かったようにして戻って行ってしまう。」

何かをわかった気持ちになって、そのじつ境目を越えず戻る日々。
その繰り返しを残念に思いますが、そうしたものだと心を慎み歩みたい。
それは他者に対する普遍的な関わりでもあるように思えました。
とても示唆に富んだ言葉をありがとうございました。
折に触れて自らへ問い直します。

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