支援総額
目標金額 2,000,000円
- 支援者
- 174人
- 募集終了日
- 2024年6月28日

「防衛技術博物館を創る会」のマンスリーサポーターを募集します!

#地域文化
- 総計
- 389人

800年の時を超えて、明恵上人の心を未来へ。内﨑山遺跡が存続危機。

#地域文化
- 現在
- 2,190,000円
- 支援者
- 89人
- 残り
- 33日

夜の世界で孤立・困窮している女性たちに、必要な支援を届けたい

#医療・福祉
- 総計
- 175人

令和6年豪雨で倒壊した山形県酒田市 御瀧神社|修繕と復興にご支援を
#地域文化
- 現在
- 16,115,000円
- 支援者
- 502人
- 残り
- 5日

中西讃地域の医療を守り続けるために。高機能救急車の購入にご支援を

#医療・福祉
- 現在
- 24,023,000円
- 寄付者
- 289人
- 残り
- 1日

ウクライナ侵攻から3年――。いまだ続く戦地の犬猫救援活動にご支援を

#国際協力
- 現在
- 6,238,000円
- 支援者
- 545人
- 残り
- 5日

住宅密集地においても医師が一刻も早く患者さんの元へ駆けつけるために

#医療・福祉
- 現在
- 24,506,000円
- 寄付者
- 461人
- 残り
- 5日
プロジェクト本文
終了報告を読む
自己紹介
「予科練資料館」です。
私は故 館長 川野喜一の次男、川野浩二です。私の実家(大分市)には、予科練飛行兵だった父の写真がずっと飾られていました。
子どもの頃「かっこいいな」くらいにしか思っていなかったが、物心ついた頃、終戦が1日遅かったら父は特攻に行っていたと聞かされました。
大人になって、東京で働くことになったある日、実家に「予科練資料館」ができたのです。
戦争が終わった時「死に損なった」と本気で思ったという父。
そんな父が生き残ったものの務めとして、特攻で亡くなった方達の慰霊と恒久平和を願って「予科練資料館」をつくったのです。
東京に居る私の出来ることは、ホームページを作ることでした。(10万人を超える訪問者数)
「予科練資料館」ホームページ
「予科練とは」
予科練とは、海軍飛行予科練習生、即ち、少年航空兵のことである。
この制度が出来たのが、昭和5年6月1日で、第1期生79名は、全国より5,800名の志願者から厳選され、横須賀海軍航空隊に入隊しました。その後、昭和14年3月には霞ヶ浦湖畔に移り、大東亜戦争が始まるや、航空兵の増員が急務となり、練習航空隊ができたのです。
そして予科練習生は優れた搭乗員としての人間形成と、鉄石の訓練をものともせず、航空兵としての実力を身につけました。昭和12年8月14日、中国本土に孤立する居留民団(日本人)を救助するため、暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは多くの偉勲を重ね、太平洋戦争では名実ともに日本の航空戦力の中核となり戦ってきました。
しかし戦局は悪化し、敵が本土に迫った時、全員特別攻撃隊員となって、一機一艦必殺の体当りを決行したのです。名も命をも惜しまず何のためらいもなく、ただ国を救うことのみに無限の未来を秘めた蕾の花の生涯を、祖国防衛のために捧げたのであります。
創設以来終戦までの予科練の歴史は僅か15年3カ月に過ぎませんが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希ふ、幾万の少年たちが全国から志願し、その予科練卒業生の8割が未曾有の国難に殉じて散華したのです。
「予科練資料館」資料の数々
・遺族から寄贈された「写真」「遺書」「寄せ書き」「海軍の備品」他
・当時の服装・ケツバット・通信機・模型・海から引き上げたプロペラ等
・来館者の「記帳」には、小学生から当時を知る高齢者まで、千人を超える方々が感想を記入しています。
プロジェクトを立ち上げたきっかけ
これまで、靖国神社の宮司がいらしたり、国内、海外含め沢山の方々にこの資料館を存在を知って頂き、多くの来館者もありましたが、父が亡くなった今、家族で継続することが困難になったため、大分縣護國神社に移管を進めています。
他県の資料館も検討しましたが、父は大分で生まれ、大分に設立した資料館なので、大分縣護國神社への移管を決めました。
資料館は来館者から入場料等は一切頂いて居らず、運営費は川野家で賄い、プロペラの引き上げなどの大きな費用が発生するときは、寄付を募っていました。
この度の移管にあたって、大きな費用が発生するのが「慰霊碑」の他、海から引き上げた「ゼロ戦のプロペラ2機分」であり、この移設費用を捻出したく、このプロジェクトを立ち上げました。
また、クラウドファンディングを行うことで、父の遺したこの「予科練資料館」の事をより多くの方に知っていただければ幸いです。
「予科練資料館」を作った理由(「予科練の群像」より)
戦後半世紀を過ぎても特攻隊員の体当たり攻撃で戦死された戦友のことを思うと、今でも胸の痛みを感じて仕方がありません。
私は当時、攻撃第五飛行隊員として、木更津海軍航空隊基地で連日沖縄方面に、又本土近海までやってくる敵機動部隊に対し、必中攻撃を行っていました。そして昭和20年7月25日、我が飛行隊も全員特別攻撃隊員を命ぜられ、終戦の8月15日まで、第4次に亘り特攻攻撃をかけ、32名もの戦友を失いました。
僅か20才前後の青年達が、祖国と肉親の安泰を祈り、いさぎよく死んでいったその崇高な精神、犠牲の極致、又人としてのなし得る最大の奉仕をされた、帰らぬ君等2534名の特攻隊員と、予科練戦没者の遺徳を後世に正しく伝えたいのです。
この悲惨な戦争を二度と繰り返さないために、我々生き残った者の勤めとして、遺書、遺品と予科練に関する資料を一堂に集め、その供養をすると共に、多くの人々に観ていただくことを願っております。
そして次代をになう青少年の育成に役立てば、又世界の恒久平和を希求し散華された多くの同窓の御霊も必ず喜んでくれるものと思い、此処に予科練資料館、平和の館を作りました。
川野喜一(昭和63年8月14日、大分県大分市の自宅地下に開設)
プロジェクトの内容
「予科練の碑」と「ゼロ戦のプロペラ2機分」の移管に関わる費用捻出です。
クラウドファンディングが成功した際、以下の費用、その全てに充当します。
■資金使途
「移設費用」
・予科練の碑 60万円
・プロペラ2機分 120万円
・現状回復費、人件費、その他 20万円
合計 200万円
■スケジュール
プロジェクト終了後、年内に移設を実施します。
プロジェクトの展望・ビジョン
歴史は繰り返すと言われます。
今、戦争を経験した方たちが亡くなり、戦争に関する情報が風化していく中、この予科練の歴史を後世に遺す、それが二度と繰り返さないことにつながるのではないでしょうか。
よく誤解を受けるのですが、父は決して特攻隊を美化していたわけではありません。
「二度とこのような悲しい思いをさせてはならない、二度と戦争をしてはならない」と死ぬまで世界の平和を願っていました。
「予科練の群像」著:川野喜一 序文抜粋
絶望的な戦況下、無謀ともいえる命令を甘受し、ただただ黙々として任務を遂行した紅顔の美少年たち。僅か二十歳前後の青年たちが、祖国と肉親の安泰を祈りつつ、名も命をも借しまず敢然として、国に殉じた崇高な精神を、真摯に受け止め、永く後世に伝えなければならない。
予科練出身の戦死者は、一八、九○○柱である。当時を思い起こせば、私は、涙なくして語ることは出来ない。ここに靖国の英霊に成り代わり、共に戦い生き残った我々同窓が、それぞれ体験した赤裸々な記録を、忠実に伝えようとして編纂したものである。その会員の事跡が貴重な歴史の証 として、多くの人々に深い感銘を与え得るならば、幸甚の至りである。
敗戦から立ち上がり、世界第一の経済成長を成し遂げた日本。今日、自由と平和を謳歌することの出来るのは、彼等英霊の、身を挺して国に殉じた礎が、あったからだと確信している。
国に殉じて散華された数多くの英霊に対し、深く哀悼の意を表し、生ある限り慰霊の行事を続けることを誓い、序文の言葉としたい。
【資料館に寄せられた「記帳」より抜粋】
特攻隊という20にもならない青年達がこれほどにも辛く悲しい思いをしたと考えると胸が痛くてなりません。今日は終戦記念日ですが改めて戦争の恐ろしさを実感しました。「お国のためです。安心してください」こういうことが言える国ではいけないと思います。
少年達がどういう思いで親、知人に遺書を書いたのでしょうか?今生きる人全てが考えなくてはいけません。そしていつまでも平和でいられるように。一人一人が心におかなくてはなりません。
僕の母方の父が、特攻隊の教官をしていたこともあり小さい時からよく話を聞いていました。その祖父が、生前よく言っていた言葉は自分が教えた特攻隊員の出撃前に撮った写真を見ながら「自分よりはるかに若いのに、自分は彼らを送り出してしまった。今、自分が生きているのは余分の命だから、彼らの分も頑張らなくちゃいけない。」と。
今の私達も、彼等の犠牲の基にある今の日本を真剣に守っていかなくてはいけないと思います。歴史を繰り返さない為にも。彼等の為にも・・・・。靖国で安らかにお眠りください。
今まで戦争は怖いもの、という思いから、正しい歴史を認識していませんでした。当時の人たちがどれだけ国を愛し、守ろうとしたかを知り、また遺書を読ませていただき、涙があふれて仕方ありませんでした。
現在の日本は彼らが守ろうとした日本の将来の姿に果たして正しくなっているのだろうか…何か釈然としないものを日々抱えながら過ごしています。もう少し自分の国を大切に思う気持をみんなが取り戻さなければならないのでは。自分たちのもの(国)は自分たちで守らなければ・・・
この時代に多くの若者が戦争で亡くなり、沢山の未来が消えていったと思うと心が痛みます。この多くの人が、国を思い、家族を思い、大切な人を思い、散っていった。
彼等が生きていたら、いったい何をしただろう、どんな夢を追いかけただろう。彼等が命をかけて守ろうとしたこの国は今....申し訳ない気持ちになってしまうのは私だけでしょうか?
死んでも泣くなと言う遺書を受けっとた遺族の方はどんなに辛かっただろうか。家族に泣くなと書いた若者はどんなに辛かっただろうか。被弾し空中分解する機体の中で、彼らは家族を思い涙を流しただろう。
泣くことすら許されなかった戦争を、過去の物にするのはまだ早過ぎる。
*「掲載している名称および画像は予科練資料館館長より許諾を得て掲載しています」
(予科練資料館にある資料は、全て広く知っていただきたいという想いで遺族から預かっているものが殆どです)
*移管先の大分縣護國神社様より寄贈を行うことおよび名称掲載の許諾を取得しております。
- プロジェクト実行責任者:
- 川野孝康(予科練資料館)
- プロジェクト実施完了日:
- 2024年12月31日
プロジェクト概要と集めた資金の使途
「予科練の碑」と「ゼロ戦のプロペラ2機分」を移管します。 運搬費、梱包費、現地設置費になります。 「予科練資料館」閉館式は5月中旬に行います。 募集終了後、資料の移管は今年中に行う予定です。
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プロフィール
ある時、大分の実家にできた「予科練資料館」 「自分は生かされている」と言っていた父の強い想いを知りました。 東京で映像関係の仕事をしていた私にできることは、いち早くホームページを立ち上げ、写真や映像をアップし、多くの方々にその存在を知って頂くことでした。 父が亡くなった今「予科練資料館」は兄が館長になっていましたが、後を継ぐ者がいないため、資料は全て移管することにしました。
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リターン
3,000円+システム利用料

【3,000円】「予科練資料館」応援コース
・感謝のメール
・活動報告書(PDF形式でメールで送付)
- 申込数
- 74
- 在庫数
- 制限なし
- 発送完了予定月
- 2024年8月
10,000円+システム利用料

川野喜一の遺した本
・活動報告書(PDF形式でメールで送付)
・以下、2冊の内ご希望の本1冊
1「予科練の群像」館長の川野喜一の他、生き残った予科練習生が執筆したもの
2「ケータマゲタ」館長の川野喜一が社会情勢について自由に書いた、歯に衣着せぬ本(ケータマゲタは大分の方言で「大変驚いた」という意味)
- 申込数
- 43
- 在庫数
- 制限なし
- 発送完了予定月
- 2024年8月
3,000円+システム利用料

【3,000円】「予科練資料館」応援コース
・感謝のメール
・活動報告書(PDF形式でメールで送付)
- 申込数
- 74
- 在庫数
- 制限なし
- 発送完了予定月
- 2024年8月
10,000円+システム利用料

川野喜一の遺した本
・活動報告書(PDF形式でメールで送付)
・以下、2冊の内ご希望の本1冊
1「予科練の群像」館長の川野喜一の他、生き残った予科練習生が執筆したもの
2「ケータマゲタ」館長の川野喜一が社会情勢について自由に書いた、歯に衣着せぬ本(ケータマゲタは大分の方言で「大変驚いた」という意味)
- 申込数
- 43
- 在庫数
- 制限なし
- 発送完了予定月
- 2024年8月
プロフィール
ある時、大分の実家にできた「予科練資料館」 「自分は生かされている」と言っていた父の強い想いを知りました。 東京で映像関係の仕事をしていた私にできることは、いち早くホームページを立ち上げ、写真や映像をアップし、多くの方々にその存在を知って頂くことでした。 父が亡くなった今「予科練資料館」は兄が館長になっていましたが、後を継ぐ者がいないため、資料は全て移管することにしました。