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中国残留日本人孤児2世が笑顔で暮らしていくために、法改正を。

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永松哲郎
永松哲郎19時間前私は鞍山生まれです。昭和21年に葫蘆島から博多に引き上げてきました。残留孤児は他人ごとではありません。頑張ってください。私は鞍山生まれです。昭和21年に葫蘆島から博多に引き上げてきました。残留孤児は他人ごとではありません。頑張ってください。
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2021年04月01日 13:30

9年前、福岡市の公立小学校PTAの研修で

2010年4月から2013年3月まで、私は子どもが通う福岡市内の公立小学校でPTA研修委員長をつとめていました。

今から9年前、2012年1月、小学校PTAで、中国残留孤児(帰国者)の川添緋砂子さんをお招きして、中国残留孤児問題を通じて平和を考えると題し、学習会を開きました。 

多くのPTA会員に来ていただきました。

その時の模様を報告します。

20代30代の若いお母さんの中には、そもそも中国残留孤児が何なのか知らない方も多くいますので、最初の1時間は山崎豊子原作のNHKドラマ「大地の子」の第1話を上映しました。あの第1話は何度見ても涙を堪えることができません。 

 

DVDの後、川添さんのお話を伺いました。以下は、川添さんの発言です。なお、()内は会場からの質問に川添さんが答えた部分です。 

 

「生涯で二回言葉の壁を乗り越え」 

みな様、こんにちは。 

私は中国残留日本人孤児の川添緋砂子と申します。 

今日は中国残留邦人の戦争体験の話をきいていただける機会をもうけていただきまことにありがとうございます。 

私はどうして生涯で二回も言葉の壁を乗り越えなければならなかったのでしょうか。 

私は日本人です。故郷は佐賀県唐津市北波多です。父は北波多郵便局に勤めておりました。昭和7年、満州の延吉市に転勤になりました。昭和11年3月、私はそこで生まれました。父の転勤に伴い、私の家族はハルピンに転居し、その後、黒竜江省林口市に住んでいました。 

昭和20年8月、ソ連の参戦も知らずに父は郵便の仕事に一生懸命務めていました。夢にも思わなかったソ連の爆弾が突然空から降って落ちてきました。見上げると夥しい数のソ連の飛行機が空を舞い、空が暗くみえるほどでした。 

父と妊娠中の母、私(当時9歳、小学3年生)と二人の妹。親子5人は初めて危険を感じ、原始林の中に逃げました。毎日ソ連の飛行機を避け、帰国が出来る方向に山を登り、嶺を越え、河を渡り道なき道を何日も歩いて逃げました。お腹が空いたら草や木の葉を採って生のまま食べ、夜は木の下で眠りました。雨の降る日はとても苦しかったです。地面はぬかるんで歩きにくく、服は濡れ、寒くて震えました。 

私は、いつも温かかった自分の家を思い浮かべていました。家で食事を作って食べ、寝床にもぐって、ぐっすり眠ることができるのはどんなに幸せですばらしいことでしょうか。それは現在の平和時代には平常なことでしょう。でも戦争の時代はできませんでした。私達は歩けば歩くほど家は遠くなっていきました。 

8月20日、ソ連軍隊に遭遇し、私たちは牡丹江難民収容所に収容されました(関東軍は住民を捨てて先に逃げていました)。母はそこで赤ちゃんを産んだ後亡くなりました。赤ちゃん美砂子は中国人に引き取られていきました(私はその後何度も妹を探しましたが、生きているのか死んたのかすら分かりませんでした)。 

父と私たち姉妹は、そこからハルピン収容所に移されました。そこは以前、日本人小学校でした。その臨時難民収容所は、電気器具も水道も暖房設備も全て壊れており、門やガラス窓も割れ、寝具も食べ物もなく、ただコンクリートの床に横たわって休むだけでした(1つの教室に80人以上いましたが毎日死んでいき、最後は私達家族だけになりました。父は郵便局の仕事で中国人と仲良くしていましたので、収容所の中でも父に世話になった中国人が良くしてくれたのです)。 

ハルピンの10月は雨だれも凍りつくほど寒く、でも、私達の服装は家から出てきた時の服のままでした。寒さと飢えに襲われ、父は10月10日に亡くなりました。私は起き上がって、父をトラックまで見送りたいと思いましたが、どうしてもできませんでした(私も餓死寸前の状態で立ち上がることすらできなかったのです)。目だけで父が知らない人に拾い上げられ、運ばれていくのを観ていることしかできませんでした。この日から私は孤児になりました。 

この日の夜、私は眠れませんでした。眠ったら二度と目を覚ますことができないのだと何となく分かっていたからです。その時、足音が聞えました。父は亡くなる直前、中国人の友人に私のことを頼んでいたらしく、5,6人の中国人が私を探しに来てくれたのです。「いた!まだ生きている!」と私を連れて行ってくれました。あと一日遅れたら、きっと死んでいたでしょう(妹2人も他の中国人に引き取られていきました)

私は、養父の昌隆水(建設会社社長)の家に連れて来られた時、頭から足まで、虱と虱の卵がいっぱい付いていました。虱が噛んだ所が膿を持って、皮膚と肌着が粘着して脱ぐことができません。養父は私を浴槽に入れて、肌着が柔らかくなったら、少しずつ少しずつ脱がせてくれ、血が出たら薬をつけてくれました。毎日、栄養たっぷりの食事を作ってくれました。でも、私は一ヶ月過ぎても、自分の力で立つことができませんでした。 

養父は単身赴任で、ハルピンに仕事に来ていました。家族は山東省にいます。戦争のせいで帰宅することができませんでした。 

男手ひとつで子どもを育てるのは、どんなにか大変なことでしょう。養父は母親のように優しい人でした。養父は私に「早く元気になって、学校に行きなさい」と言いました。しかし、中国語ができないから学校に行くことはできませんでした。その時、私は「これから中国人と一緒に暮らすのだから中国語ができないと困る。必ず中国語の壁を乗り越えるためにがんばろう」と決心しました。そして養父に「パパ、ノートを買ってください。」と頼みました。ノートをもらってから勉強が始まりました。「これはどう言ったらよいでしょうか。あれはなんでしょう?」聞いたらノートに書いて何回も読んで、覚えるまで一句一句がんばりました。あの時、私は9才、小学校三年生です。漢字を見たら日本語では読めます。中国語では読めません。私は商店街に行って読めない漢字を記録し、家に持って帰って教えてもらいました。そうして、私の中国語がだんだんできるようになりました。 

1948年の春、養父の会社は瀋陽市に移転しました。私も養父と一緒に行きました。養父は私を連れて小学校に行きました。でも空席がなくて入学できませんでした。家に帰って養父は私にこう言いました。「私がお前の命を救ったのは、自分の老後の面倒をみてもらうためではなく、お前が社会に役に立つ人間になってほしいと思っているからだ。だから、がんばって勉強をして、能力のある、道徳的に立派な人間になって欲しいのだ。」養父の話を聞いた後、私は本当に良い養父にもらわれたと思いました。これから私の命は川添緋砂子ではなく昌鳳香です。私は二回目にもらった命は自分だけの物ではなく、社会と他人に責任があるのだから、言葉の壁だけ乗り越えるのではなくて、人生の生き方の壁も乗り越えなければなりません。 

1949年10月1日、新中国が成立しました。以前行ったことがある小学校の門の側に「夜間学校生徒募集」の広報がありました。私はうれしくて戸籍票を持って入学の手続きをしました。その時、他の学生から私の日本人戸籍票を見られました。「おーい、この子は日本人の鬼の子だ。」と大きな声で叫びました。その時からいじめられ、通学の途中、石が飛んできました。頭や体に傷つけられました。養父は私の傷を見て涙を流しました。養父は仕事が終わるとできるだけ早く家に帰って私を夜間学校まで送り迎えをしてくれました。 

ある日、養父は「こっちの学校は午後6時から8時まで2時間だけだ。もし山東省の故郷に帰ったら、日本人だと誰も知らない。学習の時間も長いし、午前8時から午後4時までだ。故郷に帰ろうか。」と相談しました。 

1951年12月、親子2人、養父の故郷に帰りました。養母に会いました(私のお母さんとは似ても似つかない)。「どうしてこの人が養母だろう。身長は低くて、顔は黒くて、養父は身長高くて、中国の有名な俳優趙丹みたいな方です。この二人は夫婦でしょうかと思った時、養父は私に「こちらはママよ。はやくママと呼んで。」と言いました。私はどうしてもママと呼ぶことができませんでした。養父は「どうしてママと呼ぶことができないか。来年2月、私が瀋陽に行ったら、誰が世話をしてくれるのかを考えたか。」と言いました。 

1952年1月、小学校6年生に転入しました。7月、山東省立師範学校は生徒募集を行いました。私は試験に参加し合格しました。養父母と家族皆大変喜びました。 

その日、私は考えました。「現在、誰も私が日本人だということを知らないけれど、自分は知っている。日本人は優秀民族だから、一生懸命頑張ってあとで皆が私が日本人だと知っても、恥ずかしくないようになる!」私は努力して毎回試験は第1位でした。 

師範学校は寮生活でした。一学期に一回だけ家に帰ります。冬休みになり、私は半年間離れていたわが家に早く帰りつきたいという思いで急ぎました。途中、雪が降り出しました。35キロの道を歩いて帰るのは大変でしたが、あの時代の中国農村は電車もバスもタクシーもないので歩いて帰るしか方法はありません。まだ家からは遠く離れているところに雪達磨みたいなものが見えました。私は走って近づきました。見たら、養母が私を迎えに来て雪まみれになって待っていたのです。私は大きな声で「ママ、ママ、ママ」と叫びました。養母はとても良い人でした。私を自分の娘のように愛してくださいました。 

1955年7月、私は「全課優秀」の成績で卒業し、農村小学校の教師になりました。当時、中国の農村は貧しかったので、冬になっても靴を買うことができない生徒もいました。私の命は自分だけのものではないから、お金も自分だけのものではないと思って、生徒に靴を買ってあげました。えんぴつやノートがない生徒がいれば、私が買ったのをあげました。高校教師を務めていた時、一人の生徒がすばらしい大学に合格しました。でも、母親が病気で、入学の交通費と入学金がないから困っていました。私達夫婦はそれを知って、二人の給料をこの生徒にあげて入学することができました。この生徒は今アメリカの有名な大学の教授になっています。 

1960年「教師進修学校」は学生募集しました。私は応募し試験に合格し4年間勉強しました。卒業後、中学校の化学教師を10年間務めました。高校の指導主任と副校長も10年間しました(副校長というのは校長と同じですが、共産党員しか校長になれないため、実質的には校長でも党員でなければ肩書きは副校長となります)。 

1982年10月、中国人民政治協商会議菜西県委員会副主席に当選しました。 

1984年3月から連続3回(9年間)地方人民代表大会常務委員会副主任に当選しました。 

1993年4月、政治協商会議常務委員会副主席に当選しましたが、11月に退職して日本に帰国しました(私は父母と自分の名前を覚えていましたので、日本大使館に手紙を出していたのです。すると半年後に、唐津市にいる父の兄弟から返事が来たのです。父の兄弟は終戦後シベリアに抑留されていたそうです。祖父は私達の帰国を待ち望み、中国からの引き揚げ船が入るたびに博多や佐世保、長崎に行っていたそうです。父の兄弟から、ずっと待っていたからいつでも戻っておいでという返事をもらいました)。 

中国語の壁は48年間の歳月をかけて乗り越えたと思います。しかし、日本語はすっかり忘れていました。 

平成5年11月、ようやく帰国することができました(海外で良い生活をしていても故郷に戻りたいという気持ちは止められません。孔子の教えに「落葉帰根」というのがありますが、まさに故郷に帰りたいという気持ちです。私に日本からの手紙が来たことで夫に私が日本人であることがばれました。はじめ夫は驚きましたが、故郷に帰ることに夫は理解を示してくれました。養父は1963年に73歳で、養母は1987年に89歳で亡くなりました)。 

でも、言葉の壁は、以前の中国語の壁のように厚くて、高くて「定着促進センター」で4カ月間勉強しましたけれども、聞くことも話すこともできるようにはなりませんでした。 

その後、「福岡自立研修センター」で8カ月間勉強しましたが、日本語で話しかけられると聴き取ることも返事をすることもできず、買い物さえも不自由でした。 

帰国して4年目の夏、小学校一年生(孫の)の国語の問題を間違えたことは一生忘れません。自分の日本語のレベルはなんと低いのだろう。もし、このままだと自分の生活が不便なだけではなくて孫の学校の成績にも影響するかもしれないと心配しました。 

その年の秋、福岡県福祉課から自立研修センターが再研修生を募集するという通知が届きました。思いがけないチャンス到来にうれしくて、その日の内に申請書を送りました。同時に佐賀県福祉課に「交通費申請書」も送りました。でも「交通費は自費」との回答でした。 

私は決心しました。どんな困難があろうとも日本語の勉強は必ず続けようと。 

61歳の私は再研修生になりました。「レベルアップコース」の中で私は最年長者です。20代30代の若者と一緒に勉強するには勉強方法を工夫することが大事だと思いました。私は聡明ではありません。中国に「笨鳥先飛(のろまな鳥は早めに飛び立つ)」ということわざがあります。すなわち予習こそ早めに飛び立つことだと思います。予習を通して大事なところや難しいところをはっきりさせる。授業の時には真面目に先生の講義を聞いて詳しくノートをとり、わからないところを質問する。それから授業の後には上手になるまで繰り返し練習する。このようにして半分の努力で倍の成果を上げることができました。 

二年間再研修して、日本語のレベルはアップしました。私は日本語で「中国残留孤児の悲惨な遭遇」というテーマで久留米大学法学部で2回講演しました。その後、佐賀大学経済学部でも講演しました。私の講演原稿は教科書にも載せられました。 

日本語のレベルがだんだん上がるにつれて、周囲の方々との交流の機会も多くなり、町内の婦人部副部長や会計も担当しました。日中友好協会に入会し「切り画同好会」の会員になりました。一昨年と昨年2回福岡市美術館での作品点に参加しました。多くの方々と友達になり毎日の生活が楽しくなりました。 

私は75歳になりました。でも、まだまだ勉強しようと思っています。パソコンを使えるようになりたい。日本語の歌も歌えるようになりたい。帰国から今まで習った日本語は全て標準語でした。今後は方言を聞いても分かるようになりたい。日本語の勉強は大変難しいです。この厚く高い言葉の壁は死ぬまで頑張って乗り越えたいと思います。 

ありがとうございました。

 

以下質疑応答 

・孤児の70%は学校に行っていない。というのも孤児たちを育てた養父母らは大抵貧しい境遇の方たちだったから。 

・学校も出てなくて中国語でも自分の字すら書けない孤児たちに、「動詞」とか「名詞」「形容詞」とか言われても分かるわけがない。 

・9歳まで日本語を話していても48年間使わないと日本語を忘れてしまう。 

・私の娘は山東省の経済大学を卒業して、山東省の銀行の課長をしていた。しかし、私が帰国して1年後に日本に来た。その時34歳だった。中国では銀行の課長をしていても、日本では彼女に見合う仕事はなく、ホテルの厨房や工場で働いている。 

・息子は大連の大学の日本語学科を卒業し、今は東京にある中国系の大型機械の会社の社長をしている。東日本大震災の時、原発の炉を冷却するための巨大なクレーンが日本になくて困っているのを知って、彼は中国にある巨大なクレーンを寄付した。 

・日本も私の国だし、中国も私の国。四川省の大地震の時は残留孤児達が中国から受けた恩を返すために募金をして、四川省に震災孤児のための学校を作った。息子がクレーンを寄付したのも同じ気持ち。 

・日本に帰ってきて一番良かったことは、日本人として日本人の生活ができること。 

・反日感情、反中感情について、中国でも民間のレベルでは反日感情はない。日本の兵隊は憎んでも日本の市民は優しいと皆知っている。民間同士仲良くすることが大事。 

・若いお母さんたちに伝えたいことは、平和は大事なもの、戦争で被害を受けるのは普通の市民。子ども達の幸せのために平和を。 

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【九弁連】中国帰国者に関する実効性のある施策を求める決議嶽村久美子さんからの応援メッセージ
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回憶録・切り絵(中)コース

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※6月までにメールにて日程調整をさせていただきます。
※新型コロナウイルスなどの影響で開催ができない場合は延期として、再度日程調整をさせていただきます。
※オンラインでの講演も可能です。

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