*本プロジェクトについて、

ご質問・ご不明な点がございましたら、こちらまでお問い合せください

m703921209@yahoo.co.jp

 

山形県の「母なる川」最上川をご紹介させていただきます。

最上川は、

福島県境に近い吾妻山付近を水源として、山形県の中央部を北に流れ、

新庄市付近で西に向きを変え、酒田市で日本海にそそぐ一級河川です。

流路延長229kmは、全国で6番目の長さで、一つの都府県のみを流域とする河川としては国内最長。流域面積は県内全面積の76%を占め、そこに県総人口の90%以上が生活しています。また、最上峡・五百川峡・碁点峡によって、山形は置賜・村山・最上・庄内の4地域に分かれて、それぞれの地域で特有の言葉や文化を持ち続けております。

 

最上川の舟運は平安時代から行われ、『古今和歌集』にも歌われており、

村々で収穫された米が最上川を通じて国府に運ばれました。

舟運が発達したのは戦国時代。

最上郡清水(大蔵村)の城主・清水氏が酒田―清水間の開発をはかり、

その後、山形城主・最上義光により最上川舟運の開発は一段と進められ、

元禄年間には上流から下流まで全域にわたり発展しました。

 

荷を積む船は、平田船(ひらたぶね)と小鵜飼船(こうかいぶね)の2種類があり、平田船は、本流に就航する250俵積み4人乗り。それに対し、

小鵜飼船は、積載量は50俵程度で、支流や船着場間の近距離輸送に使われ、

スピードもあり、川幅の狭い支流では重宝がられました。

どちらも舵はなく、櫂や帆で進み、急流を上る時には綱で曳きました。
上りには2週間、下りには4~5日程度かかったと伝えられています。

また夏や冬は水不足になり、真冬には凍ってしまうこともあったので、いつでも船が通れるわけではなく、雪解けで水の量が増す春先から、はじめに幕府領の米(御城米)が、次に大名領の米や商品の荷が運ばれました。

 

下り荷として、酒田へ運ばれたものは、米・紅花・青苧・大豆・小豆・蝋・漆・真綿・胡麻・荏(いたね)油・水油・紙・葉煙草などがありました。
上り荷として、酒田港へ入ってきたものは、播磨の塩、瀬戸内の砂糖、大阪・堺・伊勢の木綿類、出雲の鉄、美濃茶、南部・津軽・秋田地方の木材、松前の肴類、古着などの日用品でした。また、文化的なものとしては、瀬戸物・雛人形(民・工芸品)、言葉・祭り・料理(無形の文化)が運ばれました。

中でも京都の祇園祭は、県内各地に様々な影響を与え、河北町では「谷地どんが祭」にそれを見ることができます。また珍しいものでは墓石があり、これらは北前船のバランスを取るのに欠かせないものでした。当時最先端のデザインのものが運ばれ、今でも最上川周辺の地域で見ることができます。

 

このように最上川舟運は、山形に様々な文化を根付かせ、歴史的に重要な役割を果たしてきました。しかし、明治20(1887)年に東北本線、明治36(1903)年に奥羽本線、さらに大正3(1914)年に陸羽西線が開通し、輸送手段は陸上に移り、最上川舟運は急速に衰退していきます。

 

現在、最上川では三つの “舟下り” を楽しんでいただけます。最上峡舟下り(戸沢村)、最上紅花ライン舟下り(大石田町)、最上川三難所舟下り(村山市)。舟下りの楽しみは船からの眺めと、それに何といっても「最上川舟唄」。左沢に生まれ、昭和始めに改作され舟唄は全国に知られていきました。唄と言えば現在、町出身のビジュアル系の演歌歌手、最上川 司(もがみがわ つかさ)さんがデビューし、大変な話題になっております。

 

以上、私たちの山形を語る時に絶対に欠かすことのできない

“最上川” のご紹介でした。ここまで読んで頂きありがとうございました。

 

永昌寺副住職 布川 浩久

 

*参考:紅花資料館の資料,「北前船と舟運」(島根県・地域歴史文化研究会)

新着情報一覧へ