少し専門的な話になりますが、「十六羅漢」と今回修復する「迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだじゃ)」についてご説明します。

 

十六羅漢は、釈迦の弟子のなかでも特に優れた代表的な16人です。

釈迦の死後も永くこの世にとどまって、仏法を護り人々を救済することを命じられました。

普段は離れたところに住んでいますが、供養のときにはそれぞれが多くの眷属を従えて集まります。

 

654年に玄奘三蔵が訳した『大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記』によって十六と定められ、尊名が列記されています。

これにより中国では唐の時代から広まり、修行者の姿であらわされる「十六羅漢図」が制作されるようになりました。

 

日本においては、平安時代の永延元年(987)に奝然(ちょうねん)が宋から請来したものが伝わった後、和様の十六羅漢図が制作されるようになりました。

禅宗の興隆した鎌倉時代以後は禅宗寺院で多く制作され、江戸時代中期頃からは一般庶民のあいだでも羅漢信仰が盛んになり、十八羅漢や五百羅漢へと発展していきました。

 

第三尊者の迦諾迦跋釐堕闍は、須弥山の四大洲のひとつで東方に位置する東勝身洲に、600人の眷属と住んでいます。

形相については、羅漢研究として有名な養鸕徹定編『羅漢図讃集』(文久三年〈1863〉)に

「鬚や眉は黒く長く、手に念珠を爪繰り、牀(椅子)に倚って瀑を観る。鬼の使者がいて、二角三目にして両手に剣を支えて侍す。」

と記述されています。

しかし、羅漢の形相は様々であるため、これは代表的な例のひとつであるといえます。

彫刻においても決まったかたちはなく、様々な姿であらわされています。

 

永昌寺の「十六羅漢像 第三迦諾迦跋釐堕闍尊者」をみると、やはり注目するのはその顔です。

その写実的な表現からは、「最高位の修行僧」というより、どこか親しみやすく愛着さえ感じ取れます。

本像が制作された江戸時代の文化年間(1804-1818)には、前述したように羅漢が広く一般に信仰を集めていました。

本像も地域の人々にとって、身近で親しみの持てる「羅漢さん」として当時から愛され続けているのではないでしょうか。

 

 

文化財マネージメント 阿部麻衣子

 

 

【参考文献】

・文化庁・高崎富士彦『日本美術 No.234 羅漢図』(1985)至文堂

・瓜生中『仏像がよくわかる本―種類・見分け方完全ガイド』(1998)PHP研究所

・真鍋俊照編『日本仏像事典』(2004)吉川弘文館

・花山勝友「江戸庶民と羅漢信仰」『天恩山五百羅漢寺―霊鷲山釈迦説法図 写真集』(1982)天恩山五百羅漢寺

 

 

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